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私のビジネス上の失敗を振り返ってみる。営業に長けていた私は、それなりに事業を運営する事に苦労しない。また、資金が無い時は社長兼経理で五十名程度の社員数までは、決算の準備から、年末調整まで自分で行った。日々の帳簿つけも自分でやっていた。財務的な知識も経営者としては平均以上であるとは自負している。
何よりも組織作りの経験と、実行力については経験的にも日本では特殊な位置にいるだろう。
奇抜な発想力など、才気溢れた事業は出来ないが、努力により後発的に身につける技能に関しては、それなりに自信がある。
よって、財務的な破綻も、組織的な崩壊も経営上経験はない。これに関しては早期に対処して手当出来る。
こんなバランスの取れた経営者であるはずの自分が懲りずに何度も失敗している事がある。
私自身、投資や投機のたぐいには興味がない。それは自分自身を事業家として強く規定しているからだ。投資家になる事にモチベーションも持たず、蓄財に興味もない。勉強がてら、株なども少しやった事はある。語るほどのノウハウも経験値もない。
よって、常に私の興味は事業の実体の方にあり、経済の側面でもある株式がらみの話には表面的な知識を得るに止めて来た。
しかし、株式は投資やレバレッジという話のみではなく、経営の実体とも深く関わる部分がある。企業統治という側面から見た場合株式は重要な意味を持つ。
私自身の失敗を振り返れば、この企業統治に無頓着だった事だ。自分の経営者としてのリーダーシップと人格、そして実行力があれば株式の保有比率など、どうと言うことは無いと言うスタンスでここまで来てしまった。
結果、会社が良い時も、会社が状況的に悪くなった時も、組織を統治しきれず苦労してきた。社長として部下の信を失ったことはないと思っている。いつも苦労するのは他の株主、ボードメンバーとの関係だ。
私自身は、お金を稼ぐという意味での経営者と言う面と、教育者として、思想家としての側面がある。これらは、高いレベルでは一体化するとは思うが、低層的、短期的には相反する場合がある。この教育者として、思想家としての面を理解して頂けないと、利益を上げボードメンバーを達が報酬を得ると言うことを中心に考えている人とは意見の相違が生まれる。
まあ、簡単に言ってしまえば、全社的に見たり、社会性という面で言えば正論だが、あまりに過激な主張過ぎて、他の経営陣に受け入れられない事が多いのだ。ボードメンバーの即時的利には、全く頓着しない主張だからだ。
危機が訪れた時は、当然強いリーダーシップの下、求める理想の一致が必要だ。当然、発言や行動はより剥き出しになり、過激さを増す。今までごまかしが許されていた相容れない部分が明らかになり、共に経営することが不可能になる。
会社の状態が良い時には、経営陣はお手盛りで利得を奪い合う事が多い。これを抑制して、適切な報酬を取り、事業を前に進めるために全力を投じる為には、克己心が必要だ。意識して克己をしている人間と、利得を得るための理由付けを探す人間とでは、相容れない主張の違いが生まれる。共に経営をすることはやはり不可能だ。
自分が経営者であったとき、その他のボードであったとき、何度もこれらの主張でぶつかった。私自身は克己の上での正論をぶつけるので、相手側には反論の余地を与えない。自分で言うのも何だが、会社の為には、最も良い方向性を過激なまでに打ち出すので、反論は出来ないのだ。ただし、他のボードに受け入れられるかは別問題だ。
結果、方針の違いにより、経営陣は空中分解してしまう。この様な事が何度かあった。社員と取引先には迷惑がかからないように手当はするので良いが、理想の実現の為には随分遠回りをしてきた。
この様な時に、経営の実態と株式の保有率を両面からしっかり堅持しておけば、法的にも実体としても、私を中心に事業を継続するだけで良いのだが、株式の保有に無頓着だった私は、ボードメンバーで適当に株式を持ち合っていた。法的な面から見れば、ちゃんと運営されていた企業を無傷で継承して行くことが出来なかった。
これにより学んだ事が二つある。
一つは、ボードメンバーは理念の共有でのみ募ると言うこと。利害の一致や、状況によってボードメンバーを編成することは、後に禍根を残す。理念、理想が共有出来るメンバー以外は、いかに能力が高かろうが、巨大なアライアンスを持っていようが、ボードメンバーにはしない。
HWSでは過去の反省を活かし、これに沿った人間しかボードメンバーにしていない。これから企業の拡大と同時に、ボードメンバーの増員が必要だが、このポジションにはPMを経て、実績と理想の一致を乗り越えなければ獲得させない。他社から優秀な人間をヘッドハンティングする事もしない。優秀な人材は自社にて育ってもらう。
もう一つは、私が完全な議決権を持てる分だけの株式を保有すると言うこと。七割以上の株式を私が持たずして、経営はしない。これも後に禍根を残す。私が企業の良心として、企業の理想を実現するための最終砦として機能するために必要な割合だ。
経営の実体と統治権が分離している状態では、必ずその矛盾から後に争いが起こる。私自身、事業の立ち上げや運営、組織の掌握には圧倒的な実績と自信がある。その実体と、法的な統治権が別な場合に、方向性の違いが生じればトラブルは必ず起こる。
IPOの直前になれば、より公的な存在として決意があるので、割合は変わるが、それでも過半数の株式を保有しない状態は考えていない。
HWSはそもそも、理念と理想の共有で全てのメンバーを集め、機能している。それが実現出来ないのなら、HWSとしての存在価値がない。
HWSのあり方を支持して頂き、多くの投資機関の方々がIPOの向けての、投資を希望してくれている。ありがたい話だが、後に不満を言われたくもないので、この様なHWSのあり方については、この公のブログでも、お会いした時にもクギを刺させて頂く。それで、異論が有る場合は投資をして頂かない方が良い。IPOを実現したとしても、株主総会にて同様に主張し続けるつもりだ。
理想の共有無くして何のHWSか。尖った個性が無くなって何のHWSか。
その為に必要なHWS独自の意志は、私が一命を賭して守る。利も地位もとうの昔に捨てているので、私には怖い物は特にない。HWSという存在を世に出し、我々メンバー全員が人生を投じるに足る偉業をひたすら狙いたい。
今回は少し、込み入った話なので、多くの読者にはイメージが湧かない内容かもしれない。しかし、読者の皆さんが経営組織の中枢に行けば行くほど、今回の内容から受ける啓示は多いはずだ。
多くの若い方が、今回の内容を実戦の中で噛みしめる日が来ることを心から願っている。
そして、私の、HWSの意志を強く世に打ち出し、HWSとの関わり方を多くの企業にご理解頂ければ何よりである。
先日、韓国へ行く機会があった。数年ぶりの訪問だ。急ぎの仕事があり、一泊二日の滞在でとんぼ返りとなった。取引先への配慮もあり、詳しい話は書けないが、日本への就業を志向する多くの若者と面談した。
IT業界における韓国は他のアジア諸国と位置づけが違う。人件費も日本と大差なく、オフショアでの開発先としては難しい。新卒の初任給も二十万円程度は普通に希望している。日本語対応も中国ほど力を入れている様には感じない。コストメリットはほぼない。
韓国にはWeb系を中心に個性的なパッケージソフトなどがあり、販売の権利を買い取って日本に輸入している友人も数名いる。私のまわりに数名いると言うことは、多くの企業がソフトやコンテンツなどを輸入し、日本国内でビジネスを進めているのだろう。ただし、私のまわりで、それらのソフトウェアの展開で、現状では成功している例はほぼない。
アジアを中心として、海外へ行くことは多いが、どこに行ってもサムスンやLGのオフィスや工場があり、韓国企業の強さ、たくましさを意識せざるを得ない。特に対インド戦略においては、日本企業は完全に遅れをとっている。
近隣の国でもあり、私の友人を含めた多くの日本企業が韓国には進出しているので、私があえて踏み込む領域ではないと思い、今までは、あえて意識してこなかった。そこに、HWSが参画する意義や、メリットを感じなかったのだ。
今回ソウルに飛んでみて、現地の人間に話を聞くと、現状の景気はあまり良くないと言う。IMFが介入した後に奇跡的な回復を見せた韓国のイメージのまま、不覚にも印象がストップしていた私にとっては、少し意外な感じがした。
現況の日本とは全く逆で、学生の就職率は極めて低いとのことだ。その分、大学を卒業した後の職業訓練校の様な位置づけの学校は多くある。就職できなかった学生の受け皿として機能しているのだろう。
今回は、日本語とIT教育を行う職業訓練校のいくつかに訪問した。日本の採用難と、韓国の就職難とは単純に見れば、ニーズが一致している。韓国の学生を日本の企業に就職させるような流れが出来ないかという打診があったのだ。
実際に韓国の学生達に会ってみると、性質は素晴らしく良い。日本語を習い始めて、一年も経っていないのに、かなりコミュニケーションが取れる。努力の跡がうかがえる。素直で前向きな姿勢もうかがえる。徴兵制のせいか、強さ逞しさは日本の学生と一線を画する。人間的には私の好きなタイプだ。
しかし、あえて言うのであれば、その試みは現状では大きく成功するとは思えない。HWS自身が、国内IT市場に海外の人材を活用しようと数年の間取り組んでいる。色々な取り組みで国内市場にアタックしたが、外国人に対する心理的障壁は思ったよりも厚い。
実際、外国人がらみで起こったトラブル事例も国内には多い。その記憶や情報を現場の人間が持っているので、マネージメントサイドの思惑として、海外を活用したくても、現場で前向きに取り組む雰囲気はない。これでは成る物も成らない。
韓国人の若者は日本人と同じレベルの初任給を希望している。コストメリットがないのだから、日本語能力は日本人並であることが要求されるはずだ。その上で、ITスキルは日本人を凌駕していないと、日本人並みのコストで就業させる理由が見あたらない。
外国人と言うことでの心理的障壁、求められる日本語スキル、ITスキルの高さ、これらを考えるとビジネスモデルと言うほど大きな流れとして、韓国人学生が日本へ就職するスキームは難しい。
更に、日本の売り手市況にも陰りが見え始めている。恐らく、今のように学生が優位な状態で就職活動が出来る事も長くはあるまい。その中で、韓国人学生の日本での採用は更に狭き門になるはずだ。韓国人どころか、日本人学生の就業が困難な時代もそう遠くないだろう。
私が渡韓した際に、ダイレクトにそれらの話はさせて頂いた。あまり、甘い希望を持たせ何らかの利得を頂くのも好きではない。現状を正しく認め、それに対してチャレンジするのが後悔もなく、正しくビジネスを進める道だ。
その中で、日韓をつなぐいくつかの策が無いではない。楽ではないが可能性はある。HWSが志向するITパーク構想を一つのあり方として、IT業界において諸外国と日本の間にある障壁を無くす道は元々HWSの構想にある。対インドでも、対ベトナムでも、対韓国でも基本的な仕組みは変わらない。
一応、私の構想の一端は、韓国側に打ち込んで帰った。私自身、志向するビジネスモデルを隠す事がない。私が最終的に追うビジネスモデルはあくまでも社会の為に必要なものだ。他社が先駆けて実現し、世に貢献するなら、それが社会のためだと思っている。自社の利益より、社会の前進を優先する。逆に言えば、自社が先陣を切って利益も得る事が、社会に対する一番の貢献である様にはしておきたい。
また、内容を話しただけで、他社が模倣出来るようなノウハウは、所詮その程度であるとも思っている。本人が重大ぶって、隠していても、実は大した価値などない。思い入れがあり、執着して誰にも真似が出来ない様に作り込まれて初めてビジネスは価値を持つ。
ちょっと、話は逸れるが、先日HWSのメンバーがHWS的なオープンなスタンスのまま、他社とパートナー契約の締結に動いていた。一緒に業界を盛り上げましょうと言う様なスタンスで、お互いのノウハウはオープンに出し合って行きましょうと言う話だ。先方も契約の話になる前は、「先ずは業界が盛り上がる事が大事ですからね・・・、競合も有った方がいいですよ・・・」という器量の大きさを見せていた。しかし、いざ契約の段になると自社の既得権を保証してくれという主張の元に、多くの契約上の縛りを付加してくる。まあ、一般の企業としては当然のスタンスだ。結果的には破談した。HWS的なオープンさは一般的には特異であることを、HWSのメンバーは強く認識した方がよいかもしれない。手前みそで恐縮だが、こんなスタンスを本気で取れる企業はHWS以外にはほぼ無い。
話を戻す。
いずれにしろ、韓国の若く意欲的な人材に、日本国内において活躍してもらうには、双方の努力が必要だ。韓国側の若者に求めるのは、謙虚さと不屈さだ。強い自己主張よりも、日本国内において求められるのは共闘の姿勢だ。地道な努力が出来る事は最低限の素養だ。これは、日本の若者にも同じように求められる。
これらの若者と日本の若者が共同して作業する場所があれば最初のスタートは切れる。流れに乗るまでは、収益には繋がらないだろう。初期段階で潰れない程度のランニングコストを稼ぎながら、何とかビジネスを回す。数年の後に実社会で競争力のあるチームが出来上がるはずだ。基盤とスキームが出来上がれば、量の増大は可能だ。
現状、HWSも社員数も資金力も無尽蔵ではない。そもそもの構想されているビジョンがあるので、寄り道する気はない。韓国に関するビジネスは白紙だ。
ただし、ある材料をフルに使いながら、理想に向けてひた走るのがベンチャーの姿でもある。全てがそろっているからビジネスを行うのではなく、7割方勝算があれば、残りの3割は途中で埋めながら走り続けるのだ。
HWSの提唱する理想に、近づく形でビジネスを構築出来るのなら、可能性はある。その可能性は現時点では否定出来ない。ただし、対韓国のビジネスを切り回す人員は必要なので、HWSが誇る9事業部の中で、専門に取り組むチームがあればと言う話ではある。
韓国側の学校も、私が提唱したモデルには深い興味を示している。こちらが前向きに動くならとりあえずのスタートはリスクが無い形で切れるはずだ。
ビジネスには構想と実行が必要だ。どちらかが弱ければビジネスの実現はない。私はどちらかというと、構想力より実行力が強いタイプだ。しかし、経験上培われた構想力もそれなりだとは思う。まあ、実用可というレベルか。
HWSのメンバーはまだまだ、ビジネスという面では両面とも弱い。これから多くの失敗を積みながら、挑戦の中で両方の力を上げて欲しい。嫌になるほど上手く行かない事があるうだろうが、潰れずに前進することを願っている。
久しぶりに陽気も良く、春を感じさせる暖かさだ。本日はこれから、会社説明会もある。どんな学生達が来るのか今から楽しみだ。会社説明会も四回目となるが、HWSの応募にヒットして来社される方は、基本的に質が高い。恐らく、ビジネスに対して真摯な姿勢で臨める人でなければ、HPを見た瞬間に来場は取りやめるはずだ。
このブログなども、多少(?)説教くさい部分もあるので、ブログを読んで来社される方の中には、「もっと威圧的な方なのかと・・・・」という様な感想を頂くケースも増えている。
よくあるHPの制作会社や、採用のコンサルタントに聞くと、堅すぎるし、学生が分かりづらい内容なので、イメージ的に明るく楽しい感じを出した方が良いと言うだろう。
しかし、採用の本質は企業への共鳴者を集めることなので、イメージを良くして母数を増やしても、本末転倒であり、意味がない。一人でも二人でもHWSの本質に惚れる仲間を集めたい。
だから、採用活動には主張が込められていなければ駄目だ。込めた主張に感応して求職者が集まる形が望ましい。
HPを作るにも、様々な媒体でHWSの事を告知するにも、そこに他者とは違う主義主張を込めるべきなのだ。求職者達を欺いて、集客する必要は一切ない。これはセールスではない。集めているのは共に血を流し、汗を流す仲間だ。
話は変わる。
VC(ベンチャーキャピタル)の方や同業異業種問わず経営者の方など、多くの方がHWSに訪問される。最近多く聞く話が、無尽蔵のエネルギーを持っている社長さんが少ない、事業にモチベーションを持っている社長さんが実は少ないという内容だ。
VCの営業の方などは、多くのベンチャー企業に会い続けるのが仕事だ。毎日何人もの経営者と会うらしいのだが、会ってネガティブな雰囲気にやられ疲れてしまう事が多いと言うことだ。
確かに理想やビジョンも無いので、困っている経営者もよく見かける。また、事業にモチベーションの無い社長も多い。
基本的には起業家の王道を歩んで来たつもりだったが、私のあり方が特殊になりつつあるのかもしれない。
しかし、現在の好景気が斜陽を迎え、本質的に正しいベンチャー企業としてのあり方が、必要となる時代が必ず来る。混乱の中で、理想やビジョンにより、強靱な絆を持った組織しか、生き残れない時代が来る。
その時代に備え、より多くの若者に今日も正しい道を示して行きたい。「志義狂戦」でちょっと、厳しさを打ち出し過ぎたので、今回はちょっと軽めにて失礼。
このシリーズの最期の「戦」について。
この「戦」が何故最期にあるのかを書きたい。前の三文字を実戦する為に、どうしても踏み込まなければならない領域が「戦」だ。戦わなければ、志も義も狂も実現しない。
私自身の性質を振り返る。ビジネスの世界に入る前の私は、トラブルや軋轢を嫌い、調和を第一に生きてきた。スポーツなどの競争は好きだが、人間関係は波風を立てない事を信条としていた。また、場を和ませ、人と連携していく能力は、もともと平均以上に高かった様に思う。
二十歳の頃に大学を辞めビジネスの世界に進んだ。ビジネスの世界には、スポーツの様に明確なルールはない。法や礼節などの最低限の共通認識はあるにしろ、あらゆる手段、あらゆるルートを使って、成果を求めて良いのだ。
また、資本主義社会の原則は自由競争でもある。世界中の人間が全て豊かになるために資本主義の舞台に上がったのが、ここ二十年くらいの時代の流れだ。その中で、あらゆる手を使い勝利を掴まなければならない
ビジネスの世界は協調だけでは許されない。社内外にかかわらずだ。
例えば、社内に何らかの改革的な提案をしたい時。既存の抵抗勢力は必ずある。根回しと調整だけで、持論を押し込むことは出来ない。実績とリーダーシップをテコに、自己の主張を押し通すしかない。ごり押しを乱発しては、いずれ信頼を失うが、戦うべき時に戦えない人間が実現できる事はない。
実は私自身、この部分では相当苦労した。パッと見、調子が良いし、常に身を呈して事業の前線で収益を確保してきた私が、そこまで強い態度で改革を訴え自己主張を通すとは他のボード達は思っていない。臨界点が高いので、ギリギリまでは我慢するし、自分が努力して何とかなることなら、自己の動きで解決してしまう。しかし、もうこれ以上は自分だけで処理出来ないという問題に直面したときに、その実行力とプレゼン力を武器に過激な改革案を推進する。豹変した様に感じる人も多かったはずだ。
耐えすぎるのも考え物だと最近はちょっと反省している。社内の敵の方が、社外の敵よりも始末に悪い。私の場合で言えば、少しずつ、自分の意志をかいま見させ、「キレる」臨界点が近い事を告知した方が良いかもしれない。
ビジネスの世界では、パートナーやクライアントですら、常にフェアであるとは限らない。フェアさを欠いた相手に大しては徹底して戦う姿勢がなければ、仲間を守る事すらできない。現場で必死に仕事をこなしている仲間を守れずして、何のリーダーかとも思う。
特にベンチャー企業の存在意義を考えた時に、既存のあり方に対して問題提議をし、新しい分野を開拓するのがベンチャーの役割だ。改革を断行する時には必ず反発がある。既存の社会の中で既得権益を確保している人間達から見れば、改革者は自己の利益を侵害する悪だ。しかし、一部の既得権益者の利害に反しようとも、何かを進め、国家や社会全体の進化させるのが改革なのだ。それぞれの正義をぶつけ合い、その勝敗によって未来の形が決まる。ここに話し合いの余地はない。戦の一文字があるのみだ。
ベンチャー企業が、己の理想に尖り、新しい未来を創る時には、善し悪しは別にして必ず戦いが起こる。この戦いの道に歩みを進める勇気が無ければ、ベンチャー道は全う出来ない。
ベンチャーとして、狂で有り続け、志を貫くには、「戦」が必要だと言うことだ。
「義」を守る時の戦いとは、己との戦いだ。他者との戦いはある意味容易い。明確な相手に明確な戦意を持って挑めばよい。難しいのは克己だ。
義を貫くためには克己が必要だ。自分の欲に打ち勝ち、正しい道を歩まなければならない。それが、後にはより大きな利益になるのだが、刹那的な利や楽よりも義心を優先しなければならないのだ。
事業をやっていて、この様な選択を日々訪れる。特に社長業などはこの連続と言ってもよい。
自分の収入を決める時。会社を私に出来る状況で、理性を廃さずに正しい選択を出来るかどうか。色々な言い訳が自分の中に浮かび上がる。いや、半分は言い訳ではなく、一般的に言えば正しい事柄なのかもしれない。
自分はリスクを冒して、私財を投じ、この企業を作ったのだから、この程度のお金はもらって当たり前だ。
自分がいなければ、生まれない企業だし社長なのだから、みんなこの程度の利得は得ている。
背負っている責務が大きいのに、この程度の物は得ないとやっていられない。
色々な理由が自分の中に訪れるのだろう。しかし、冷静に考えて欲しい。共に事業を創り、理想を追っている仲間達も、人生の一部である時間を切り取って自社につぎ込んでいるではないか。成果や能力によって報酬に違いあるのはフェアだ。しかし、それには限度もあり、基準もある。企業を私にする権利は経営者にはない。
様々な言い訳に勝ち、義を通す為に克己する。これが、出来なければ多くの国民、多くの企業を巻き込みグローバルな企業を目指す資格はない。
義を通す戦いとは己との戦いだ。この戦に勝ち、自分の理想に純粋に生き抜いて行きたい。
「戦」を嫌い、自分にも甘い、凡人であった自分が、理想のリーダーを目指し、掲げたビジョン全うする為には、「戦」の一文字を何度も唱えるしかない。自分自身の行動規範として、意識し続けるしかないのだ。
志義狂戦の四文字は、ともすれば曲がりそうな自分自身を導く道標だ。事業の成功や、富の蓄積の前に、自分の求めるあり方実現する為の指針なのだ。
本に書いてあった借り物の言葉でもない。格好をつけるために、掲げた言葉でもない。
人間であり、凡人である自分への戒めとしてたどり着いた言葉だ。自分を含めた凡人達が、後発的に己の才能を磨き偉業を成し遂げられる事を証明したい。その為には自分の弱さを認め、自分の弱さを克服しなければならない。志義狂戦は、そんな凡人の偉業への挑戦の言葉なのだ。

この項では、ベンチャー企業としての心意気を書きたい。
私自身が元々極めて、小心であり、才にも非凡たる部分が見あたらない。まあ、良くも悪くも素材で言えば並だ。
そんな、己の素養に囚われず、常人と違う道、常人と違う成果を狙い歩み始めてから、私の苦しみと喜びの事業家人生は始まった。苦しみ九の喜び一くらいの割合だ。
この凡人が「狂」の世界に入った意味を書きたい。
「狂」と言っても、別に奇をてらって、個性的なふりをしろと言うわけではない。ベンチャー企業は個性や独自性が存在価値ではあるが、表面的な部分をいじって、それらの個性を演出しても実質的な価値はない。
本来の個性とはごまかしがきかない重さと強さを伴ったものだ。髪型を奇抜にしようが、服装を奇抜にしようが、趣味として止める気はないが、個性的とは言わない。
例えば、メジャーで活躍しているイチロー選手のバッティングフォーム。最近は昔ほどではないが、独自のバッティングスタイルは賛否両論あったものだ。大事なのはそれだけ個性的なフォームなのだが、個性的なフォームを目指してそこにたどり着いていないということだ。
長い時間をかけて、血を流し、汗を流し、より多くのヒットを打つために、己のバッティングを完成するために熟成させたのが振り子打法だ。彼は純粋にバッティングの完成を目指したのだ。だから、彼の技術もフォームも誰も真似が出来ない。彼独自のスタイルとして確立し、機能美的な美しさを放ち続けている。
個性とはこの様なものだ。人間の競争力を生み出し、実行力を持つ個性とは、この様な流れの中で生まれる。あくまでも、個性は後天的に意志の力で創られると信じたい。真の個性はリアルでシビアな世界でこそ光を放つものだ。
ベンチャー企業も結果として、この様な美しい個性を生み出すべきだ。その個性が、規模や社歴による安心感に勝る魅力を生むのだ。
真のベンチャー企業には社会的なミッションがある。そのミッションを後発のベンチャーが成し遂げようと思うなら、尋常な世界で戦っては駄目だ。正攻法で行けば、形のでかい方が勝つ。資金力、社員数に勝る既存の大手に勝てるはずがない。
論理的に考えても、ベンチャーは既存の常識に囚われず、その組織、その事業を作り込まなければ競争力を持てない。既存の基幹産業群に対するアンチテーゼを打ち出し、成熟した組織が決して真似できない動きを、日常としなければ勝つ理屈が見えない。
圧倒的な攻撃性、妥協を許さない自立性、想像を絶するモチベーションetc。これらをミッションにそって実現してこそベンチャーだ。
何故奴らはそこまでチャレンジするんだ?何故奴らは収益にそこまで執着できるのだ?何故奴らはあそこまで高いモチベーションを持っているんだ?理解できない。
半分あきれ、半分気味悪がられるくらいの組織でなくては、ちょこっと儲ける仕事は出来ても時代を作るような事業は無理だろう。
「狂」とは本当に狂えと言うわけではない。「狂」と言われるくらい、自分達の理想、自分たちの理念に純粋であれと言うことだ。一切の不純物を許さず、純粋になれということだ。その行為が多くの不純な組織にしてみれば、「狂」となるのだ。そして、「狂」がもたらす圧倒的な力に多くの企業が、畏怖と憧憬を抱く様になるのだ。
明治維新前の長州藩を思い起こして欲しい。そもそも、強大な江戸幕府に単独で喧嘩を売ること自体が「狂」だ。十中八九、長州藩の未来は全滅しかない。長州藩の持つ「狂」は、局所局所では打算を持ち利得を求めた人間もいただろうが、大きな流れとしては、幕府を倒さねば日本の未来は無いという純粋な思想にあったはずだ。
明治維新の起爆剤的な役目を担った、故吉田松陰先生が「狂」の一文字を愛したのも、「狂」無くして、時代は創れずと言う痛烈な想いからだろう。また、実行者としての才を持たず、思想的に尖り続けることを使命と感じた故人の決意を「狂」の一文字に感ぜずにはいられない。
出来る出来ないではなく、誰かがやらねばならなぬ。この様な純粋さを指して、人の世では「狂」と言う。
思想と実行を一致させる事は簡単ではない。理屈で分かっていても、妥協や打算の中で、実行まで行かない。明治維新の根底には陽明学的な思想があったと聞くが、その陽明学の柱は、思想と実行の一致である。「義を見てせざるは、勇無きなり」を命がけで全うするのだ。
私自身も、HWSという企業も、常に「狂」をはらむ存在でいたい。他社と容易に区別化が出来る存在でありたい。後天的に、その純粋さによって作り込まれた個性を持つ存在でありたい。
自分達のミッションに純粋になり、妥協を許さず進む過程で、イチローの様に誰も真似が出来ない個性を確立するのだ。より強い組織を作り、全力で理想に挑む過程で、誰にも真似の出来ない強さを実現するのだ。
ベンチャーの本質は「狂」だ。既存に対するアンチテーゼをするわけだから、既存を良しとする存在からは常に「狂」なのだ。新しい社会を作る行為は、前時代的な価値観からすれば「狂」となるのは当然であろう。
既存の大手企業の価値が、過去と現在を創り支えたことなのであれば、我々ベンチャーの価値は、未来の社会を創ることだ。先駆けて未来の社会のあり方を提唱し、異端と言われながらも、その主張を貫くことだ。だから、現社会からすれば、我々は「狂」であることこそ望ましいのだ。
ベンチャー企業の心意気を「狂」の一言に込め、多くの同胞に伝えたい。
凡人である私自身が、非凡な成果を得るために、自分自身を作り替えるために必要だった言葉も、この「狂」だ。
どれだけ規模が大きくなっても、どれだけお金を儲けようとも、この純粋さを失わず、生涯「狂」を全うしたい。
HWSは理性と意志の力によって、あえて「狂」の道を歩む。
今日は「義」について書きたい。
義について語る時にクローズアップされるのは、物事の優先順位だろう。
人間には欲がある。欲はエネルギーの根源でもあるので、肯定的にとらえて良い。その欲の達成の為に人間はエネルギーを発揮し、努力するのだ。欲無く無気力より、貪欲でバイタリティーが有る方が、私としては美しく感じる。生産的でもある。
志を持ち、夢を持ち、生涯をかけて欲を満たして欲しいのだが、時にその欲より優先するものがある。それが「義」だ。
義とは少し抽象的な言葉だ。孟子に言わせると「義は人の路なり」となる。私自身、哲学者でも思想家でもないので、意味の言及はこのくらいにしておく。大事なのは、人として正しいことを行う事だ。一つだけ言わせてもらえば、行動として行われないものは「義」とは言えない。
欲と義がぶつかる場面がビジネスの世界にはある。
自分がやりたい夢がある。自分が目前で興味のある事がある。自分の欲のままに進むことはやぶさかではないが、これが義に反するなら話は変わる。
例えば、一旦企業に入社したら一宿一飯の恩義がある。この恩義を返さずに後ろ足で砂をかけて、自分の夢に向かう人間が居るとしたらどうだろう?
例えば、苦しい時に色々便宜をはかってくれたパートナー企業があるとしよう。自社が好調に成った時に、メリットが無いからと言って、それらのパートナーを簡単に入れ替えて良いのだろうか?社員や会社の為には新しいパートナーの方が当面有利であった場合に「フォー・ザ・カンパニー」を基盤にすると、パートナーは切るべきにも思える。
状況によるので一概には言えない。
ただし、この様な場合の自分のあり方が、自分の美しさを作り、多くの人の共感を呼ぶ器を作るのだと思う。
ビジネスの基礎である「費用対効果が・・・」「ギブ&テイクが・・・」などのドライな感覚だけでは成立しない部分がある。そもそも、ビジネスはドライなオペレーションの上手さだけでは成立しない。執着や思い入れと言った、理屈では計り知れない要素が競争力を生む。
時には自分の夢が数年単位で遠回りしないと獲得出来ないかも知れない。それでも義に反するなら、数年の自分の人生など捨てなければならない。
実は、その行為は遠回りではない。目先の事業の進捗や自分のキャリアアップは数年遅れるかもしれない。しかし、その代わりに手に入る物もある。義を守った人間としての信用や、常にその信用を勝ち取れるほどの人格だ。僅か数年でこれらが手に入るなら、安い物だ。
ビジネスの道は、ほとんどの人にとって一生続く。自らも義を守り、義を守る人間達と組織を組んだ時のその後の生涯を考えて欲しい。気持ちの良い、安心感の元に全力で前進できる自分をイメージできないだろうか。仲間を信じ抜き、自分も信頼されビジネスを展開する未来には無限の可能性がある。
一方、目先の利得や、自分の欲の為に義をないがしろにした未来を考えて欲しい。その行動は本人の人格をも蝕み、いびつに形成していく。その人間のまわりに集まるのは義を知らない輩ばかりだ。お互いに信頼も出来ず、いつ誰が裏切るかを恐れながらビジネスを展開しなければならない。苦痛だし、発展するとも思えない。
数年くらい、義のためならくれてやればよい。義のためなら、一時的な所得など落ちてもかまわない。義を欠く事は最大の恥だ。私自身の感覚はこの様なものだ。これで、結果的に遠回りしたことは無い。一時的には遠回りに見える経験を何度もしている。
HWSでは最速の成長を狙っている。まわりを巻き込み、日本の未来の一翼を担おうと言う気概で燃えている。しかし、ヘッドウォータースのミッションはあくまで公義の上に成り立つ。我々が良くても、社会のためにならないことはやってはいけない。
私自身は、義についてこだわりと執着を持ってきた。凡な才しか持たず、圧倒的な力を何も持たない私が、リーダーとして経営者として自らの道を作るには、人格において優れるしかない。人格は、後天的に作られるものだ。義を守ることによって、後天的に磨き上げ作り上げるものなのだ。そして、作り上げた人格をもって、リーダーシップを取ればよい。
夢を語る時、義に反していないか再度確認して欲しい。
正義を語る時、その正義は、個人にとってか?会社にとってか?社会に取ってか?公儀なのかを問うて欲しい。
「自分が・・」「自分の為に・・・」ではなく、「会社の為に・・・」「社会の為に・・・」その行為は良いことなのかどうかを考え欲しい。
日本人は元来この義を第一にしてきたように思う。明治維新後も、太平洋戦争後も他国と戦い勝利をもたらした日本の組織力は、全てこの義の上に成り立つのではないだろうか。
新渡戸稲造氏の「武士道」を読んだ時、武士の前提はこの義であると言うような事があったように記憶している。あらゆる事に義が優先し、義を欠くことを最大の恥とする。この文化が延々と残り、日本の組織戦の強さを支えているのではないだろうか。
志の後に何故、義を呈したか。
それは、理想を強く持ち、志のままに生きようとする己への自戒だ。私自身が理想に燃え、強い信念を抱けば抱くほど、その欲に流されない為の自戒なのだ。
志の前に、人としての義がある。義を知らない人間に志を語る資格はない。
理想に燃えている人、野心を抱いている人、ビジョンがある人、信念がある人がその欲に従って動く時は、再度振り返り義を見て欲しい。

昨日、東京ビッグサイトにて行われる就職フェア「リクナビLIVE!EAST」に出展した。私自身も出向き、計9講演させて頂いた。まあ、これも採用活動というよりは、若人達に対する啓蒙活動と位置づけているので、打算無く彼らに必要なことを打ち込ませて頂いた。好かれる気もないし、機嫌を取る気もない。未熟な彼らが自己を啓発していく為のきっかけを全力で与えるのみだ。
ストレートに一切の打算なく話した結果、耐えきれず途中退場した学生も1~2名いた。売り手市場の中、他社に行けばチヤホヤされることも多いだろうから、自分が未熟で無能である現状をベースに話されることに耐えられなかったのだろう。
せっかく同じ時間、同じ場所にいる訳なので、ネット上などでは伝わらないHWSが持つ「熱」を、肌に直接伝えたい。その為に、軽く流す訳にはいかず、私のノドも一日が終わる頃には全く機能しなくなっていた。出るのは空気が流れる僅かな音だけで、普通にしゃべるのは不可能だった。
結果的にHWSのブースは大盛況で、常に立ち見が出る状態だ。HWSには独自の制度上、人事部も無く、営業担当も一人しかいないので、スタッフとして集客し、フォローしたのは全てエンジニアだ。開発だけしか出来ずコミュニケーション能力が低い既存のエンジニア像はそこにはない。ちなみにHWS以外で、あれだけ人が集まっていたブースは、メジャーな人気企業以外にはほぼ無い。
我々の熱を多くの学生が感じ取ってくれた結果だと思っている。感受性の強い多くの若者が居る日本も、まだまだすてたもんじゃない。
私の話を真剣に聞いてくれた、百数十名の若者達、ありがとう。
これから、かつて無いほどの苦難を迎えるであろう日本経済を、共に支える仲間として、悔いのない社会への一歩を踏み出して欲しい。君達が未来へと羽ばたき、いつか同志として共闘できることを心から願っているよ。
二十年のビジネス人生において、事業家として私がたどり着いたポリシーを四文字で現すと
「志義狂戦」
となる。
これは私自身に対する四文字なので、一般の人とは違うかもしれない。私の弱いところや、私が道を間違いそうなところを補完する為の呪文の様なものなので、万人向けではない。
事業家として、人間として、リーダーとして、この世を生き抜き自分を保つためのこだわりだ。逆に言えば、この四文字はともすれば、忘却し実行出来ない事でもある。
今回は「志」ついて書く。
このブログでも一貫して書き続けているが、企業とは本来何かを成し遂げる為に成立している機関だ。その集団が持っている使命があり、それを成し遂げるために存在している。
世間で言われているきれいな正論とは違うかも知れないが、本質論で言えば、雇用は企業の目的ではない。手段であり、使命を成し遂げる過程で生じるものだ。人道的な見地や、長期で事業を推進し、企業文化を育むために雇用は死守すべきだが、目的ではないという事実は曲がらない。
成し遂げるべき使命を言い換えると「志」となる。
本来ベンチャー企業とは、この志のみによって成立し、この志を一貫して追いかけるのが正しい姿だ。ベンチャー企業というよりは、あらゆる企業の本質的なあり方も、実は志を成す為の集団であることが正しい。
資本主義の社会は、基本的なルールとして自由競争を奨励している。志がない集団は生産性を落とし、いずれ後発の志が鮮明な企業群にカテゴリーごとに敗北を喫し、衰退していく。あらゆる製品やサービスが、高い付加価値を持ち進化して行くためには、関わる人間の愛情や執着が必要だ。製品やサービスに対する執着の根源は、その企業が成し遂げようとしている志であろう。
志は野心とも違う。公な貢献を意味する語であると認識している。その意味では最近の経営者の発言の中に志をみることは少ない。志を装いはするが、実は野心だったりする。装いか本物かは一貫性を確認すればよい。
ビジョンは良い。しかし、IPOでもしてガッツリ儲け、早めにリタイアしたいみたいな発言の人間に志はない。野心とバイタリティーは否定しない。それだけでも社会的には価値はある。ただし、同じ日本人として高い志を持ってくれたらと願いはする。優秀な能力を志に傾けて欲しいと思う。
シュウカツ生の中にも志は余り感じない。志をもって、生を全うする道はあくまでも清々しい。迷いも恐れもない。ひたすら自らの人生をつぎ込み、志を追い続けるだけだ。この境地で生きる事を決め、その為の一歩として就職するのであれば、不安はなかろう。
老後の安定、入社後の自分の所得、待遇、世間体、人間関係、仕事内容の面白そう加減、こういう事を総合的に配慮して就職先をしぼるのだろうが、全てが「自分が」という発想の上にある。
これでは、野心は育めても、志が醸造されることはない。
志を考える時、一度自分の損得を捨ててみてはどうだろう。自分の損得から離れ、自分が燃えられることを考えたら良いのではないか。老後の生活も、安定した所得も一旦は棚に上げて、自分の人生をかけるに足る価値のあることは何なのか考えて欲しい。
と言うだけ言ってみたものの・・・
志を私のポリシーに上げていると言うことは、それだけ堅持することが難しいと言うことだ。絶えず意識しなければ、いずれ霧散する。
志を手放す事は難しくない。ちょっとした目先の利益に走っても良い。ちょっとした堕落に身を任せても良い。それを正当化する理由など世に溢れている。志を追い続ける苦行から逸れるのに労力はいらない。
私もかつて、何度か手放さそうと思った時もある。特に自分で「志」だと言えるほど、考えがまとまらず、その根拠も構築出来なかった時は、単純に稼ぐこと、自分が裕福になることに没頭しそうなった。
ITバブルの頃は、何とか上場まで持って行って一財産作って楽できれば的な誘惑を、自分の中に強く感じたりもした。
最期の最期は、志を追うことの気持ち良さが勝ち、今の自分に至る。
若い皆さんには、当時の私と同じように、足掻き苦しみながら己の志を練り上げて欲しい。その志を胸に抱き将来を生き抜く爽快感を全身で感じて欲しい。
人間一人の人生は思ったよりも軽くない。何か成し遂げるには十分な力を持っている。志も持たず、クラゲの様に流されて生きるのは、あまりにもったいない。
自分一人の食を確保するだけに、自分の生涯を使っても満足は出来まい。志を持ち、多くの人を豊かにし、幸せにし、そのフィードバックを受けて満たされる道を目指すからこそ、人間は無限に成長する必要が出てくるのだ。自分の食を確保するだけなら、私も今のように求道者として生きない。気の利いたビジネスマンとして、それなりの労働時間で、それなりの所得を取る道を選ぶ。
優秀な人間だと自分の事を思っている人に伝えたい。その優秀な能力を自分の為だけに使っては駄目だ。人類は支え合い成立しているのだ。力があるなら、才能があるなら、その能力を使いより多くの人を幸せにしよう。自分の性能を値切らずに、自分の才能を伸ばしきり、より多くの人達の幸せを背負う気概を持とう。
日本が戦後世界を席巻し、急激な成長を実現した背景には、志を大事にする国民性があったのではないか。自分の贅沢とかを考えるなら、本田宗一郎も松下幸之助も、あれほどの巨大企業を創り上げる必要はない。志があればこそ、あの姿の企業を創り上げたのだろう。
企業における使命が、その企業の存在価値であるように、「志」は己がこの世に生きる意味だ。その意味を自分の意志で持つということだ。
志を持ち歩み続けよう。自らの才能と人生を使い切り、納得感と満足感の中で自らの生涯を閉じる日までひたすら前を見て歩み続けようではないか。
次項では「義」について書きたい。

一昨日のフットサルの筋肉痛が未だ抜けない。久しぶりにプレーしたので、ダメージが大きい。四社対抗で戦ったが、今回の戦績はちょっと良くない。臥薪嘗胆で次回に頑張ろう。参加者中、私が最高齢であることは間違いない。一応、五十歳までは現役でプレーする予定だ。今回も得点王に絡むくらいはゴールも上げているので、まだまだ行ける(はず)。
私の文章の中で、「臥薪嘗胆」という単語をよく使う。ちょっと、粘着質な意味合いが無くはないが、好きな言葉ではある。由来を辞書で引くと
〔「史記(越王勾践世家)」「呉越春秋」などから。中国の春秋時代、越王勾践(こうせん)に父を討たれた呉王夫差(ふさ)は常に薪(たきぎ)の上に寝て復讐の志を奮い立たせ、ついに仇を報いた。敗れた勾践は室内に胆(きも)を掛けてこれを嘗(な)め、そのにがさで敗戦の恥辱を思い出してついに夫差を滅ぼしたという故事による〕敵を討とうとして苦労し、努力すること。目的を達するため苦労を重ねること。肝を嘗(な)む。嘗胆。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
と言うことらしい。
まあ、失敗や敗北を一旦は飲み込み、その屈辱をバネに後に勝利をつかみ溜飲を下げると言う様な意味合いだ。
この諺が好きだと言うことは、当然、臥薪嘗胆せざるを得ない経験を多く積んで来たと言うことだ。
冒頭にも書いたが、私も今年で不惑を迎える。経営者としても、昨今の状況を見れば決して若いとは言えない。私のビジネス経験を振り返ると、常に輝くのは一瞬で、八割方の雌伏の時間で作られている。
私自身、あらゆる才能に恵まれているとは思えない。全てが凡庸だ。凡庸な人間が非凡な成果を目指すわけだから、過程において多くの屈辱は味わう。自分の屈辱を正当化する魔法の言葉が「臥薪嘗胆」なのだ。
才能に劣ることも、成果に劣ることも、運に恵まれなかったことも、常に勝利への道程であり、臥薪嘗胆している期間なのだ。そう、何度自分に言い聞かせ、二十年のビジネス人生を過ごしてきた。
臥薪嘗胆が得心出来ず、ビジネスの世界から脱落した人間も多くいる。臥薪嘗胆というスタンスが無い為に、自分の失敗を認められず「言い訳」に走ったり、自分のその段階での敗北に耐えられず、志を捨て一瞬の安寧に飛びついたりする人を無数に見てきた。
敗北は敗北で事実なのだから、「現時点では」という前提条件で認めなければいけない。これが認められない人は誰からも信頼されない。感性も鈍るので、バランス感覚もなくなる。ただし、ここで卑屈にならない為に、例の魔法の言葉を使う。
敗北を認める勇気があれば、言い訳を必死にする必要はない。言い訳癖が出来たサラリーマンを信用するビジネスマンはいない。
敗北の屈辱に耐えきれず、大きな存在の傘下に入り、自分のプライドを慰撫する人間もいる。屈辱の時期に牙を磨き、いずれ逆襲する前に、飼い犬の様になってしまう輩だ。お前の志は、お前の誇りはどこに行ってしまったのかと問いたい事も多くあった。
臥薪嘗胆せず全面降伏してしまったら前へな進めない。敗北を認められず、現実逃避をしても前へは進めない。
私がビジネスの世界に入った時は、会社の売上を支えなければならなかったので、営業を主とした。営業センスの無い私は、成績も上がらず、お荷物である状態が続いた。過酷な環境だったので、脱落する社員も多かったが、常に「次は篠田だろうな・・・」と冗談とも本気ともつかない口調で言われたものだ。
経営者としてスタートしたときも、弱小零細企業でもあったし、私自身が経営者としての経験も薄い事もあり、ぞんざいな扱いを受ける事も多かった。
経営は真面目にしていたが、後発の企業群がITバブルの波に乗り、IPOを実現し景気の良い話が飛び交う中で、取り残された気持ちを持った事もある。
誰にも気が付かせなかったが、当時の私は笑顔の下に多くの劣等感を飼っていた。
しかし、その臥薪嘗胆の長い時間が、今現在の私の哲学や経営者としての姿を創り上げている。強がりは抜きに、今の自分のあり方を思うと、「凡庸で良かった。雌伏の時期を無くして成功しなくて良かった。」と確信する。
今の私は、どんな屈辱的な状況にも耐える自信がある。卑屈にも成らず、現実も認め耐えうる自信がある。それは、臥薪嘗胆の後に少しずつだが、成果を出し、戦いの場から降りなければ、いずれ屈辱ははらされる時が来ることを理解したからだ。
HWSの仲間も、他社の多くのビジネスマンの方々も、多くの屈辱をこれからも味わうはずだ。特にエンジニア達は、年齢と共に屈辱的な扱いを受けることは間違いない。相当の努力が無ければ、現状の業界のあり方から抜ける事は出来ない。
新しい事業に挑戦するメンバー達も、その事業がチャレンジャブルであればあるほど、敗北と屈辱を多く背負うはずだ。
しかし、その敗北から逃げてはいけない。その屈辱から逃げては駄目だ。常に唱えるべきは臥薪嘗胆だ。耐える時間が長ければ長いほど、屈辱が強ければ強いほど、勝利を掴んだ時の喜びは大きい。
屈辱の時に、強がって元気な顔をする必要はない。かえって卑屈になる。屈辱はポーカーフェースで受け流し、心の中に強い炎を焚き続けるのだ。
臥薪嘗胆が達成されるには、恐らく短くても数年の歳月が必要だろう。その間、火を絶やさず持ち続けた人間だけが、苦境にめげず志を完遂するのだ。
屈辱を原動力とする辺りが、多少粘着質で清々しく感じない人もいるかもしれない。
しかし、最期に付け加えておきたい。
例えば、今の自分の実力や成果を誰かに馬鹿にされ、屈辱と劣等感に苛まれたとする。後に、それをバネに努力し、成果を出し、馬鹿にした人間を実力と業績で追い抜いたとする。当初は、勝利し、逆に屈辱的な言葉でも浴びせてやろうかと思ってスタートしても、忍耐力を育み、努力し、多くの経験をして、自分の人間性が一段上がった後は、その様な行為をする気持ちは無くなる。
敗者の時点では多く持っていた屈辱感だが、勝利を掴んだ時には、自分がこだわっていたことが、どうでも良いことになる。
清々しい気持ちで、逆にその雌伏の時間を与えてくれた人に感謝すら出来るはずだ。
人類の歴史を振り返っても、屈辱感や劣等感という人間の負の感情を消去するのは難しい。しかし、その負の感情を浄化し、人間の美しさに変えられる事も、人の歴史は証明して来たのではないだろうか。
無能で未熟な若者達よ。臥薪嘗胆せよ。雌伏の時間の中で、己を創り上げよ。そして、日本を支える志ある者として世に羽ばたいて欲しい。