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金曜日の夜に、久しぶりにフットサルをした。今回はインフォランスの佐々木社長に誘われての参加。戦績はあまりかんばしくない・・・。
私自身、四十歳にしては結構走る方だ。往年に比べれば見る影も無いが、月一のフットサル以外に練習もしていない割には動ける。これは親からもらった身体と、二十歳くらいまでに鍛えた筋肉が落ちきっていないからだろう。
スポーツにおいて、トップの体力、技能を維持するのは大変だが、逆に十代二十代で鍛えておけば筋力が落ちきるにも時間がかかる。
私自身、ビジネスの世界でも同じ様な経験をしている。
仕事を始めた頃は、固定収入も無かったので、生活費も確保出来ず休み無く仕事に没頭した。将来への不安、営業成績の不振による仲間に対する後ろめたさなどから、仕事をしている時以外は心の平安を保てなかった。「夢のために全力を」と言うような綺麗な話ではなく、無力な未熟者の悲しさで追い立てられるように全てを仕事につぎ込んでいた。
その時期があるので、三十歳の頃に二社の代表を兼任していた時も、時間的にはきつかったが、あの頃と比べれば、収入もあるし未来も自力で描けるので数段楽だと感じた。財務的に自社が厳しかった時も、あの頃に戻ることを考えたなら、現状にはまだ余裕があると思った。
二十代では徹底して、マネージメントや営業マーケティングスキルを鍛えた。この技能が無ければ起業家として生活が出来なかった。
私自身、発想に頼って起業するという概念はない。アイディアマンとしての才能が無いことと、起業をギャンブルではなく、制御の効いた行為として完成させたいと言う意志から、当たりはずれのある「発想力」を武器とはしない道を選んだ。
よって、いつでも自分の意志で発動できる技能や、自分のあり方に興味があり、鍛錬の中でその技能を磨いた。磨ききれなければ自分の居場所が無い様に自分自身を追い込み続けた。
この鍛錬により、現在HWSにおいて自分の居場所があり、自分の役割を担えている。昔ほど、物理的に自分が追いつめられることは無い。週一程度で休みも取れている。昔ほど物理的にもきつい状況での鍛錬を今のタイミングではしていないが、二十年近くの間に鍛え上げたビジネス上の基礎体力が今の自分を支えている。自分の自信の根源となり、いかなる苦況でも、「なんぼかまし」と思える。
これは私自身の財産だ。
このブログの読者の方の年齢層は分からない。しかし、覚えておいて欲しいのは、鍛錬を経ずに歳を重ねてはいけないと言うことだ。二十代三十代の鍛錬が無い中で、ビジネスの世界で上層部を担うことは無理だ。
人が成長するには、自分に負荷をかけ続けるしかない。私自身、ここ何年も二十代の時によりも精神的な負荷は高くなっている。物理的な負荷や、自分一人の生活の不安は仕事を始めた頃がマックスだろうが、違ったレベルでの負荷があり、それは年々増している。
負荷から逃げてはいけない。ストレスから逃げてはいけない。その行為は、自分の未来を捨てているに等しい。未来発展や成長を拒否するに等しいのだ。鍛錬とは、負荷の存在無しには成立しない。
この負荷は業績に対する責任だったり、部下に対する責任だったり、クライアントと交わした約束だったりする。それを実現し、自分の発した言葉を真実にするために、自分をとことん追い込むのだ。そして、かろうじて勝利を拾って進むのだ。
この負荷を用いた鍛錬を十年二十年と続けていけば良い。寝ても覚めても仕事の事を考えるようになれば良い。仕事をしていないと不安でしょうがないくらい中毒かかれば良い。そのくらい負荷をかけないと、凡たる才しか持たざる者が、非凡な成果を導くことなど出来ない。
サッカープレーヤーとして生涯現役で行くことは難しいだろう。しかし、ビジネスの世界では常にプレーヤーでありたい。常にフィールドに立ちたい。フィールドにおいて必要とされたいのだ。
だから、私も鍛錬を続ける。挑戦の中で新たな負荷を探し、背負いにかかろう。
君達も鍛錬をする覚悟をすべきだ。力を付けたいなら、二十代三十代でのほほんと余暇を楽しんでいる場合ではない。土曜も日曜もない。成果だけを純粋に狙い、自己の責任を果たし、自己を際だたせるのだ。そこに才能はいらない。ただ、しぶとさが有ればよい。
その時期を過ごして、初めてマネージメントがとれる。部下に負荷を背負うことも要求出来る。ビジネスを司る立場に立った時、苦況でも揺るがない精神を持てるはずだ。
若い君達は日々分岐路に立っている。人生の分岐路など映画の様にドラマチックには来ない。朝、15分早く起きるか起きないかが、人生の分岐路だったり、もう一件アポイントをかけてから仕事を終えるか、今終えてしまうかの選択であったりする。
日曜日に一時間勉強をするか、寝て過ごすかの選択が人生の分岐路であったりする。人生を左右するのはこれらの選択の塊だ。その都度の選択において、自分に負荷をかけ自分を鍛える道を選ぶのだ。その時間を過ごせた者のみが、次のステップに進めることをよく理解し、日々の判断をして欲しい。
私自身、経営の傍ら私塾の運営などもしてきた。これは全くのボランティアだ。私自身がボランティアな分だけ、参加する塾生にも、日曜日の時間を自分の未来の為に割けと要求してきた。自分の未来の為に、自分に負荷をかける体質を塾生達の体内に作りたかったのだ。
昨日から09年内定者の研修も始まった。研修と言っても講義形式で何かを教えるような内容ではない。ビジネス上の課題を与え、4チームで勝利を目指し競う様な流れだ。
各チームには担当の教官が付く。これはHWSの現社員の中で希望者を募って選抜されたメンバーがなる。自分の業務以外に学生達の質問に答えたり、相談にのったり、ダイレクトに給与に乗らない負荷が自分にかかるはずだ。
しかし、これを率先して背負う事で、会社の未来を創る作業に直接関われるし、学生からの尊敬や信頼も得られるだろう。また、育成の達成感や充実感も味わえるはずだ。リーダーとして、ビジネスマンとして、今後語れる中身が作られて行くはずだ。土日に寝ているよりも遙かに満たされるし、価値がある。
自ら志願すれば負荷を背負うチャンスなどいくらでもある。
負荷から逃げず、負荷を率先して抱え込むのだ。それがリーダーだ。それが、君達が一流になる唯一の方向だ。ここに近道はない。必要なのは、皆さんの覚悟だけだろう。
以前、グローリーと言う映画を観た。南北戦争の時に最初に創られた黒人部隊を題材にした映画だ。南部と北部の対立軸は、奴隷の解放、自由貿易か管理貿易のいずれを選択するかの二つだったように記憶している。奴隷解放を推進する北部が、戦力増強の為に創立したのが、この黒人部隊だ。
解放軍側の北軍内部ですら黒人に対する差別は強く、黒人に対する賃金や物資などの供給も不当に抑制されていた。それらの試練を乗りきり、黒人部隊は結束を高め、軍隊としての実力を上げていく。最後に南軍の要塞を攻め、大半が玉砕して終わる。奴隷としてではなく、一人の人間として、戦いを選び生命を全うしたのだ。
この部隊を先例に、後に多くの黒人部隊が誕生し、北軍の勝利に貢献した。これらの史実を元に映画は作られている。配役もデンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンなど良い役者を使っており、見応えのある作品に仕上がっている。機会があれば一度観て頂ければと思う。
HWSはある意味、グローリーにおける黒人部隊の様なものかもしれない。誤解を恐れず言えば、エンジニア達の開放を宣言し、立ち上がったのがHWSだ。ただし、それは北軍と言うほどの規模ではなく、象徴的な存在として、誰も取り組めなかった分野に先鞭をつける存在だ。
エンジニアと言う職業は、ハイテクを主たる生業とする日本において、中心的な存在だ。それにも関わらず、相対的に低い生涯所得や出世の道も狭く報われない。仕事も日々リリースに追われ圧力もかかるし、技術の進歩に伴った勉強も必要だ。自然、エンジニアを目指す学生も減り、後には日本の技術的アドバンテージも消え去るだろう。
エンジニアの地位向上は、エンジニアに媚びたテーマではない。私の中にエンジニア達のご機嫌を取って、事業を伸ばしたいと言う気持ちは微塵もない。日本の競争力を担保し、日本人の幸せと、日本の世界への貢献を推進するためのテーマなのだ。
この為のエンジニア開放運動である。エンジニアと南北戦争時代に奴隷として扱われた方々を一緒に扱うのは過激でもあり、語弊があるかもしれない。しかし、現状のエンジニアが扱いを見ればあながち遠いともいえない。南北戦争も全面に押し出されるのは、奴隷解放という人道論だが、その先にあるのは社会の進化であったろう。
実体がどうかは別として、アメリカが自由と平等を掲げ多くの移民を受け入れ強国として存在できるのも、この南北戦争による部分も大きいだろう。あの時代から150年が経過した現在において、やっと黒人の大統領が生まれるかという段階に来ている。文化を形成するには時間がかかる。
グローリーよろしく、エンジニアの解放はエンジニア自身の身体を張った姿がなければ実現出来ない。
HWSでは、エンジニアが自分の報酬から、取り組む事業分野まで自分で決められる制度をとっている。更に、上司も部下も自分で決めることが出来る。言い訳の余地をとことん無くし、各人が信頼の下で事業に没頭できるように組み上げている。
他社に比べて多くの自由があるのだが、転職したばかりのエンジニアの多くは戸惑いを隠せない。今まであれば、上から流れてくる開発を黙々とこなしていれば及第点だったはずだ。HWSでは、その姿のままではネガティブな存在となってしまう。何故自分の意志で考え、自分の身体を使い新しい領域に挑戦しないのだと言う圧力がかかるのだ。今まで通り普通に開発をやっているのに認めてもらえないジレンマに陥るだろう。しかし、これも必要な産みの苦しみだ。
HWSには多くの自由があるのだが、これが曲者だ。
他の企業様から見れば、HWSの試みには否定的な見解を示すだろう。エンジニアに給与を自由に決めさせたら、贅沢を言って過分に報酬を取るに決まっている。会社の状況も考えず、良い時は高い報酬を要求し、悪い時は権利を主張し、報酬を維持するように動くに違いないと考えるはずだ。
また、自分が取り組む事業を自由に決めさせたら、収益に無頓着で好きな事をやり、会社に損害を与えるはずだとも考えるだろう。
まあ、間違ってはいない。なんの思想性もなく、高邁な理想も無い人間に権限を垂れ流すように与えたら、成果は壊滅的になる。理想な無ければ、人間はとことん利己的になる。基本的にほとんどエンジニアはサラリーマンの典型的な感覚を有し、ビジネスセンスなどはほとんど養われていない。子供に大好きなお菓子を好きなだけ食べさせるようなものだ。理性で止めることは出来ない。
要はエンジニアに自由を与えても、会社は儲からないどころか、破綻するというご意見を持たれる経営者が多いと言うことだ。経営者としては常識的な感覚だろう。
この常識にエンジニア達は身体を張って挑まなければならない。それが実現されなければ、エンジニアは使い捨ての作業員という立場から解放はされない。多くの文系出身の経営層に支配され、安い給与と低い地位に甘んじる存在からの解放は実現されないのだ。
自由であればあるほど、自分の意志で考え高いモチベーションで積極的に事業を推進する。自由であればあるほど、高い収益を会社にもたらす。
報酬も事業分野もエンジニアが自ら考え決めれば良い。全ては成果や、その継続性を基準としたバランスの中で決めれば良いのだ。その結果、かつての生産性を凌駕し、尋常ではない事業の成長や収益を実現するのだ。
HWSが結果として、これを達成しなければ、会社はそこそこ儲かったとしても、エンジニア解放の戦いは成就しない。これを実現するのは、私ではない。エンジニア一人一人のプライドや、未来に対する情熱だ。HWSの使命に対する執着によって、自由を成果に変えるという業界の革新を実現するのだ。確実にエンジニアのあり方は変わる。
HWSの挑戦は続く。我々は、過激なまでにエンジニアが自由にビジネスを展開できる企業を目指す。自由にビジネスを展開した結果、エンジニア達はテクノロジーにプラスして高いビジネススキルを身につけ、世界へと羽ばたく存在になる。そして、多くの若人達の目標となって欲しい。
自由を追う人間には逃げも言い訳も許されない。成果を出し、成果で語れる人間にのみ自由は許される。これがビジネス界のルールだ。
全ての言い訳を廃し、自らが勝ち得た権利を行使し、かつてのエンジニアでは実現しえない成果を期待している。多くのビジネスマン、経営者、学生達のエンジニアに対するショボイ認識を打破しよう。
南北戦争時の黒人部隊の様に、自らの命を賭し、自分達の力で自分達の解放を宣言するのだ。自分達の汗と血で、新たな道を築くのだ。言うほど楽ではないし、作業ではないので時間だけ使えば、成果があるというものではない。戦って勝たなければ、何も得られないのがビジネスの世界だ。その戦場へ自らの意志で身を投じるのだ。
HWSは、今は巨大企業ではない。大軍を率いて業界を変える動きは出来ない。我々の役割は、先ずは象徴でよい。多くのエンジニア達の生きる道を示せばよい。リスクを冒し、屈辱にも耐え、グローリーの黒人部隊の様に、今までの常識を崩せば良いのだ。これなら、大手企業よりも我々の方に分がある。
我々は日本の全エンジニア達の解放をここに宣言する。
今期に入って、HWS内でも結婚や出産がラッシュしている。昨日、某事業部長も父親になったと聞いた。おめでとう。少子化の昨今では、以前にも増して喜ばしい事だ。
結婚とか出産はエネルギーがいる作業なので、性質的に淡泊な人間はそこまでたどり着かないかもしれない。余程、惚れられれば押し切られて結婚という事もあるだろうが、双方にそこまでの決意がなければ、なかなかゴールまで詰め切れない。結婚年齢が上昇しているのも、様々な娯楽や情報が溢れる社会において、結婚にそこまで執着出来ないからだろう。
精神の平安さを考えるなら、男女の交わりなどない方が良い。自分が直接的に制御できない事がら増えるし、感情的な問題も頻発する。その分、恋愛や結婚には、喜びや楽しみもあるのだろうが、ストレスも増える。
そのストレスを回避するには、そもそも恋愛などしなければ良い。そこまで深く人と交わらなければ良いのだ。常に客観的な立場を取り、他人の恋愛を外から眺めて、論評していれば良いわけだ。
これはこれで、一つの生き方なので悪くはない。結婚して得る物と失う物がある。人の幸せはそれぞれだ。プライベートな問題なので、人が口を挟む事ではない。優先順位などは自分で決めれば良い。
実は組織と人の関わりもこれに似ている。ただし、組織の問題はプライベートではないので、好きにすれば良いでは済まされない。
組織にどっぷり浸かるには、ある種の恐怖心もあるだろう。新卒はトラウマが無いので良いだろうが、社会経験が有る程度ある人間は、ネガティブな体験もそれなりにしているだろうから、自然と心が自我を守る様に動いてしまう。
会社を愛しても、会社からいらないと言われたらどうしよう。
一生懸命仕事をしても認められず、出世街道から外れたらどうしよう。
会社に入れ込み過ぎた状態で人間関係に問題が起こったら逃げられない。
本当は会社の事が好きなのに、上手くアプローチ出来ない。
会社を信頼して裏切られたらどうしよう。
この様な深層心理は正に恋愛感情だ。
人間は自分が傷つくことから逃げるためには、客観を装う。常に自分を場外に置いて、批判を受けない傍観者であろうとする。プレーヤーが受ける重圧に背を向け、狂喜も放棄するが、リスクも回避する道を選ぶのだ。
それでも、給料も上げたいし、認められたい気持ちもあるので、自分の作業だけはきっちりこなす。こんな社会人が巷には溢れている。
このスタンスの根本的な間違いは、ビジネスは組織戦であるという前提から外れている事だ。組織にどっぷり身を浸し、重責を背負わない人間がリーダーシップなど取れるはずがない。これは個人の性能とは別の問題だ。メンタリティーの問題なのだ。
組織に愛情を持たないリーダーの言うことを信頼出来る部下はいない。戦場において、優秀な将校ではあるが、いつ敵側に寝返るか分からない人間がいたとしたら、全幅の信頼を持って、指示を仰げるだろうか?まあ、無理だ。どんなに優秀だとしても、いつ逃げ出すか分からない人間の言うことを聞く馬鹿はいない。
傍観者、客観者の限界はいつまで経ってもお客様であり、仲間になれないことだ。これは、八割方本人に問題がある。お客様の状態で組織運営やマネージメントの真髄を学ぶ事も無理だ。組織運営の能力は机上で習得出来るものではない。どんなに優秀でも、お客様に組織を任せるリーダーもいない。もし任せるリーダーがいたとしたら、やはり馬鹿だ。
成果に対する責任、部下の人生に対する責任、仲間に対する責任、これらを背負うには生半可の決意と精神力では駄目だ。しかし、だからこそリーダーには価値があるし、傍観者には到達できないビジネスマンとしての階段を上がることが出来る。
このブログを読まれている方は20代30代の若手の方が中心だろう。君達の人生はまだ先が長い。40代も50代も仕事は続く。皆さんが十分ご存じの通り、40代以降のビジネス人生において、今と同じ様な役割で生きることは許されないよ。君達は今よりも、組織の中枢でパフォーマンスを発揮しなければいけなくなる。今までの経験や手腕も使いまくり、組織を運営し事業を成立させる役割を背負わなければならない。
組織との恋愛を恐れては駄目だ。
組織との恋愛から逃げては駄目だ。
傷つくのを恐れても駄目だ。
リーダーとしての人格を鍛えて来なかった君達は、部下からも同僚からも受け入れられずに、傷つくこともあるだろう。しかし、それを謙虚に認めた状態からではないと、次のステップには進めない。
作業員としての性能を極め、そのキャリアを誇っていても、扱いは常にお客様であり、作業員だ。組織の一員として、組織戦の真髄には触れることが出来ない。つまり、ビジネスを知ることは生涯ない。
客観的に自社を見て批評している自分がいたら、赤信号だ。その組織はお前が作るべき組織だ。お前はプレーヤーであり傍観者ではない。所属し報酬を得ているプレーヤーだ。
自社にとけ込めないと思う感情があれば、これも赤信号だ。とけ込めないと結論づける前に、どれだけとけ込む努力をしたのだ。君を中心に組織は回っていない。社長を中心にも組織は回っていない。組織は理想、ビジョンを中心に回るべきだ。このスタンスで言えば、個人など役職がどうであれ偉くもないし、中心にはならない。誰も君達に気を遣い、君達をちやほやしないよ。自ら組織にとけ込み、自分のポジションが作れない人間は、誰かに面倒を見てもらう作業員の位置から逃れられない。
君達がビジネスマンだとしたら、組織に気を遣ってもらうことを求めず、組織全体に気を遣う側のスタンスを取るべきだ。
組織の仲間は、サークルの遊び友達ではない。無条件で許してくれる両親の様な存在でもない。あくまでも戦友だ。背中を任せ、共に戦場に赴く仲間なのだ。
戦友として信頼されるべく、自分のスキルを磨くのだ。戦友として信頼されるべく、自分の人格を磨くのだ。そして、戦友として信頼にたる自分のスタンスを固め、それを内外に発信すべきだ。
それが出来ないなら、使い捨ての作業員の道を自ら選んで進めばよい。いつまでも客観的な立場を取れば良い。傍観者気取り、自我を慰めれば良い。それで重責からも逃れられるし、出血を伴った傷を負うこともない。ただ、生きながら立ち腐れて行くだけだ。
最後に繰り返し言う。
身体を張り、組織に飛び込め。認められなくても、傷ついても組織に飛び込み続けろ。傍観者である自分を認めるな。客観などくそ食らえだ。冷静な分析など、大した力にはならない。分析などは、一定以上の能力が有る人間なら、誰でも出来るよ。
暑苦しく、情熱的に何度でもリーダーシップを取りかかれ。一度や二度の挫折で傷ついてる場合じゃない。お前はどれだけか弱いのだ。軟弱なのだ。全身血だるまになりながら、何度でも組織の重責を背負い、リーダーシップを取り、主体者として組織を引っ張り続けるのだ。このスタンスでしか、君達の未来を創ることは出来ないよ。
何度でも灰になり、その灰の中から再生していけばよい。
そして、優秀なリーダーとして、優秀なビジネスマンとして、日本社会を牽引する人材へと昇華して欲しい。君達は未熟だが可能性だけはたっぷり持っている。そんな君達に必要なスタンスを書いた。少しでも伝わればと願う。
先日、09年内定者とHWSのメンバーとの顔合わせが行われた。数十名のHWSメンバーの前で、内定者が一人一人挨拶と決意表明などした。気合いの入った挨拶と、必ず落ちをつけて笑いを狙う辺りは、流石だ。狙っているだけで、笑えるかどうかは別の話だ・・・。既存のHWSのメンバー達も、ギャグセンスで負けないよう決意を新たにしていた。決意の方向に多少疑問あり・・・。
今回はとりあえず16名だが、選考が遅れている学生もいるので、最終的には予定どおり20名程度になるのではないかと予想される。あまり人数にこだわって採用していないが、自然と良いバランスとなった。
その後、事業部長及び役員との懇親会を開いた。学生故の礼節的な弱さと、無謀なバイタリティーを良い感じに混在させた奴らが集まっていた。
礼節はいずれ経験から学ぶ。形だけの礼節を覚えるだけなら苦労はない。ただし、形には心を込めなければ、価値を持たない。上司に対して礼節を持つためには、その上司が乗り越えた経験や会社を支えている労力に対して敬意を持たなければならない。目の前に無い事実を慮り、自然と芽生えた敬意の吐露として礼節が生まれる。これを慮れない人間が優秀になることもない。自分を主張する前に、相手の背景を理解する度量が必要だ。新卒者がこれを理解するには、今しばらくの時間が必要だろう。実践の中での、苦難や挫折を経て、始めて至る境地だ。
新卒なら「これから学べば・・・」で済むが、社会人経験がある人間が、この配慮を持てなければ、無能者の烙印を張らざるを得ない。一度自分の態度を振り返って見た方が良い。
新卒の悪い面をフォーカスしても意味が無い。そもそも、未熟で無能な事を百も承知で採用しているのだ。パフォーマンスは期待していない。礼節も期待していない。期待しているのは、元気と無謀なまでのチャレンジャースピリットだ。思考力ではなく、圧倒的な行動力だ。その行動力を支えるバイタリティーは期待している。
補足するが、HWSの内定者達は、学生達の中では相当優秀だ。スピーチなどを聞いていても、内容も話し方も悪くない。勢いがあるだけではなく、社内や社会に対する自分の使命などにも言及している。なかなか立派なスピーチだった。将来、高い思想性を持ち、強いリーダーシップを発揮するのではと期待できる。「未熟で無能」とは、ビジネスが出来るというレベルを標準とした場合の話だ。相対的に他の学生と比べれば相当優秀だ。もっともこの感想には既に親ばか的な身内贔屓は入っている。
新卒者達に私が求めるのは無謀なまでのバイタリティーだ。君達は勘違いしてはいけない。君達の性能など誰も期待していない。君達が入社段階で貢献できるのは、初々しい元気さと、尋常では無い行動力で組織に刺激を与えることだ。成果などは当分出せまい。
組織に所属し、給与をもらった時点で自分はプロだという意識を持たなければならない。練習や勉強をしている場合ではない。自分が出来ることに全力で取り組み、少しでも組織に貢献する必要がある。そうは言っても、すぐに貢献も出来ないだろうが、貢献出来ていない自分への認識がなければ必死さは生まれない。必死さが無ければ、大した成長など実現出来ない。
成長は勉強によって実現するのではない。学習によって実現するのではないのだ。必死に成果を求めて、貢献を考え足掻いた後に、振り返ればそこに有るのだ。
よって、新卒者にアドバイスがあるとしたら、「足掻け」と言うことのみだ。
少しでも組織に貢献出来るように足掻くのだ。大きな声で挨拶すれば、少しはオフィスの雰囲気が良くなるなら、これ以上出ないくらいの声で挨拶しオフィスに入ってくるべきだ。少しでも先輩の足を引っ張らないように、家で死ぬほど勉強すべきだ。これは最低限の努力だし、ある意味礼節だ。
恥ずかしいとか、今までの自分のスタンスとは違うと言う事で、挨拶すらまともに出来ない輩も社会には多い。自分が恥ずかしいと言うちっぽけな感情を中心に行動を決めるから、いつまで経っても幼稚な精神から脱却できないのだ。自分を中心に考えるから誰からも真に信頼されないし、期待もされないのだ。原因は自分にある。
この面では、HWSの内定者達はほぼ合格だ。
スピーチにて、先輩を超えます的な宣言もあれば、同期で最初に事業部長になると言う奴もいた。また、会社を活性化させる為にも三年で事業部長になりますと宣言していた奴もいた。HWSで言うところ事業部長とは、九割方経営者として機能しなければならない。当然、技術的にも他を圧倒しないと信頼や尊敬も得られず、事業部が成立しない。技術も習得しビジネスも習得する必要がある。簡単な道ではない。
しかし、彼らの価値は無知故の無謀さ、無知故のバイタリティーくらいしかないではないか。小賢しく、バランスの取れた姿を演じてみても滑稽なだけだ。全てが低レベルの人間がバランスを取っても、使い物にならないくらい小さくまとまるだけだ。千の弱点があっても、一の覚悟があればそれで良い。
その意味では、09年の新卒者はほぼ合格。後で、多少言い訳めいた弱音を吐いていたやつもいたが、まあご愛敬だ。言ってしまえば、逃げ道は無くなる。ただ前進するしかない。その行動で不安さも払拭すれば良いのだ。
君達はベンチャーを選んだ。道無き道を進み、自ら道を作る。この生き方を選んだのだ。大企業には大企業の役割がある。ベンチャーにはベンチャーの役割がある。HWSは規模に、関わらず永久にベンチャーであることを決意した集団だ。ベンチャーの役割を未来に向かう、新たな道を創ることだ。日本の将来を創ることだ。ベンチャーは職業として選ぶのではない。生き方として選ぶのだ。
そこに必要なのは、小さくまとまった賢さではない。尋常ではないほどの情熱、その情熱に裏付けられた行動だけだ。頭が良い奴はベンチャーなど行かない。確率を考えるなら、ベンチャーを選ぶ生き方は決して賢くはない。「何かやらなければ」「俺がやらなければ」と言う危機感を持てる人間が集う場所がベンチャーだ。これは理屈ではない。もっと内側から湧いてくるものだ。
この焦燥感、その使命感に駆られ、全力で生きる姿を期待したい。

創業時に多くの経営者は、将来的に組織戦に突入することを意識しない。先ずは目先の生活を成り立たせる事が第一だし、仲の良い仲間と創業時を乗りきる充実感があるので、そのまま良い組織が出来上がって行くように思ってしまう。仲間の結束も堅いので自社はまとまりが有って良い状態だと勘違いするのだ。
しかし、その仲の良さのままでは、組織は成長しない。
組織は成長し続ける必要がある。特に人材育成を掲げたり、社員を大事にすると掲げている企業は成長し続けなければならない。ここでの成長とは、社員数の増加や、それに伴った売上の増加を指す。
ある程度の成長が続けば、人員は次々に補充される。もし、どこかで成長が止まるとしたら、最後に入社してきたメンバーには後輩がいないまま管理職としてリーダーシップを鍛える場も与えられない。ポジションを上げて、高い報酬を狙うことも難しくなってしまう。常に組織の末端に位置し、相応の権限と報酬の中で生きなければならない。最後にババを引く人間が出てしまう。人材育成を掲げるには矛盾がある。
だから、メンバーの成長を謳うなら、企業は成長し続けなければならないのだ。デザイナーやエンジニアを抱える組織であっても同じだ。再三再四言うが、エンジニアは職人ではない。技術を使うビジネスマンだ。その証拠に職人と言うには絶対数が多すぎるし、技術だけで生き残れるほどの希少価値もない。現場の作業者として彼らを扱い、その分野だけ修練を積ませても、いずれ地位や報酬を上げられない限界が来る。本人の努力が前提ではあるが、努力をしたら40代も50代も更に高みを狙える環境を企業は整備しなければ駄目だ。その為には、部下をつけリーダーシップを強化するのが、最初のステップになる。
話を戻す。
仲が良い創業メンバー達も、社員数が増えれば役割も変わる。各々がプレーヤーとして、頑張って動いていれば良いという訳にはいかなくなる。創業期に個人のパフォーマンスを最大化する為には、自己が快適に動く事を最優先させれば良い。しかし、組織戦で勝つためには、個人の快適さよりも、組織の勝利のための役割を意識しなければならない。創業メンバーは快適だった状況を捨て、目先の自由度を一旦捨て、組織の強化をはかるのだ。この時に快適だったお互いの関係も一時的に捨てなければならない。
組織がより強くなる為に、組織のビジョン達成に一歩でも近づく為に、最善の行動をするのがプロフェッショナルな姿だ。
社長は社長としての役割やあり方を意識し、その姿を全うすべきだ。組織のナンバー2なら、そのポジションを演じきらなければならない。以前に書いたが、私情を全て投げ捨てる覚悟と、それを継続する精神力が必要だ。
将来の組織化に対応する為に、創業する前のお互いの関係を一度白紙に戻し、新たな関係を創り上げるのだ。これが出来なければ、組織にはいくつもの禍根が生まれる。
例えば、所得の差もポジションによって生まれるだろう。所得の差は組織における役割の差によって生まれる。昔からの人間関係、力関係で言えば所得に大差なかったとしても、一旦経営組織を作ったら上長が高い報酬を取り、それに見合った責任と権限を持たなければならない。そこに昔からの関係などを持ち込むと、後に感情的にもつれる。
私自身も自分の所得をギリギリまで上げず、会社の基準を作るべく頑張った時もあったが、社長の身であまり所得に頓着しないのも最終的には不健全な状態を生む。結果的に社長の決裁権が薄くなり、組織が健全に機能しなくなる。
例えば、ポジションによる社会的な評価の問題もあろう。やはり、中小企業では業績が良い時も悪い時も、経営者個人がその賞賛も批判も一身に集めることになる。実体は、組織の強さ弱さが成果を生むのだが、外部の人間は組織全体を把握することが出来ないので、経営者の人格や性能と企業の業績を重ねて見るのだ。
業績が良い時に、仲の良いメンバーや創業に業績のあった古いメンバーは、自分の名前や評判が上がらないことに不遇感を感じる。自分がどんな業績を上げようが、名前が取り沙汰されるのは経営者のみだ。自然が感情ではあるが、組織人に徹するなら、その自分の内側から来る感情を無視して、組織の勝利を最優先に狙う姿勢が必要だ。優秀な人間ほど、組織人として間違った方向に感情を吐露しやすい。
組織人として、組織戦に挑み、組織の勝利を第一に出来れば、これらの感情は抑えられるが、組織という意識を強く持てず、仲の良いプライベートな関係の延長線上でお互いの関係をとらえ続けると、ボードメンバーの多くは消化出来ない感情に苛まれる。
一つ理解して欲しいのは、仲の良い関係を捨て、ビジネスライクな関係になれと言っているのでは無いと言うことだ。今まで以上に、自分達の生活や未来の発展を共有した、深い関係になれと言っているのだ。かつての仲の良さだけでは味わえなかった、人間関係の深みと、充実感が最終的には味わえるはずだ。強靱な組織を実現し、各々が主体者として、その組織を実社会に中で作り上げるとしたら、その充足感は過去の関係を凌駕する。捨てるのではなく、より深く、より高い関係を築くのだ。
経営者自身も、組織戦を意識しないと、少し豊かに成った時点で、自社を私物化してしまう。会社は公共物であり社会の物であるという概念が無ければ、遵法下で企業を私物化することは悪いことも無いし、自然の成り行きだ。しかし、そのスタンスでは、組織戦になった時に多くのメンバーに強い態度で仕事の動機付けは出来ない。
設立当時は創業者やボードメンバーのパフォーマンスで事業が成立している。多少の私物化は誰にも文句も言われないし、その時点ではある意味正しい権利であったりもする。しかし、その体質が固定化したまま社員数が増えて行くと、プライベートカンパニーの上に多くの社員の人生が乗ってしまう。極めていびつな状態だ。当然、多くのメンバーは不満を持ち、組織は瓦解する。自分が私物化している企業において、社員達が利己的に会社にぶら下がっていても文句を言う資格はない。
全ては、創業時にいずれ組織戦で戦わなければいけないという意識が無いから起こってしまうのだ。将来、参画する多くの仲間を意識せずに日々の業務に取り組むから、後に修正しようのない体質が定着してしまうのだ。組織において、後で直せばいいやと言う事のほとんどは、後に修正不可能だ。組織は相簡単にいじれるものではない。
土台を意識して固めなければ、その上に巨大な建造物は建てられない。
幸か不幸か、私自身は失敗経験の塊だ。二十年間のビジネス人生で誰よりも多くの失敗を積んでいる。誰よりも多くのチャレンジを、身体を張って行ってきた。自分の主義主張を貫くためなら、大金も世間体も全て捨てて、信念に殉じた。
その失敗経験ある為に、HWSは設立時から組織戦での勝利を目指し組み上げた。将来、メンバーの数が何百人になろうが、何千人になろうが、一貫して正義を主張し、仲間達が組織の勝利を最優先出来るような風土を狙い組み上げたのだ。
だから、この時期に組織戦への移行が課題となる企業が多いが、HWSではビジョンも企業文化も変更の必要性を感じない。開発の現場から、管理部門までHWSの思想の元に進んでいるし、そもそも今以上の規模で組織が機動的に動けるように設計されているので、ビジョンに向かって邁進するだけでよい。
細かい組織形態や制度を、規模に合わせて作り込んでいく事は当然必要だ。しかし、屋台骨の部分に修正はいらない。だから、このままHWSの理想に向けての成長を続けるだけで良いのだ。
多くの求職者にアドバイス
就職先として、やり甲斐や自由度の高いベンチャー企業も良いが、その企業が謳う社会性を実現するに足る組織思想をもって、自社を作り込んでいるかをチェックした方が良い。一応経営者であれば、それなりに弁が立つし、自社の事業に対して綺麗な見せ方はする。しかし、それが本気なのであれば、創業の段階から組織で戦う事を意識しているはずだ。組織戦の準備をしていないで、自社の社会性を謳うとしたら、それは一時的なエクスキューズであったり、単なるノリの話だろう。儲かりそうだから、事業の業績がたまたま良いから場当たり的に社員を集めているに過ぎない。
ビジョンに惹かれて企業に入社する行為は素晴らしい。気持ちの籠もった仕事が出来るだろう。しかし、仕事は生涯をかけて取り組むものなので、目先の感情の高まりだけで選んではいけない。現実は、何十年もかけて組織戦でしぶとくそのビジョンに取り組まなければならないのだ。
勢いだけの情熱を、真実の様に勘違いしてはいけない。ビジネスにおける情熱はしぶとく消えないものだ。派手な必要もない。無駄なアピールもいらない。心の底に常に静かに焚かれ続けるものだ。
自分の人生をぶつけるにたる、高潔な炎を持った企業との出会いを祈っている。
前回の項で勉強会の事を書いたが、既にブログから5名程度の申し込みがあった。一応二十名程度を枠として考えているので、希望される方は早めに連絡を頂ければと思う。
本題に入る。
私の現在の課題に、伝言ゲーム的な組織の劣化に対する挑戦がある。
組織が拡大する過程で、創業の志は薄まり、生産性が落ちる現象がある。潤沢な資金を得て、規模によりブランドも確立した後には、異常なほどのモチベーションが無くてもしばらく事業は回る。順調に伸びる。しかし、創業の志を完遂する為に生まれた組織と考えれば、堕落と言わざるを得ない。
経営者自身が劣化する場合もある。富裕になった後に、アグレッシブさを維持出来なかったり、創業の志よりも現在の豊かな状態に浸かり続ける事を第一義としてしまう。経営者がそもそもメッセージを発していないので、組織に浸透すべき理念自体が上から順番に霧散した状態だ。これは問題外とする。
組織が拡大しても、創業者がその志を曲げず訴え続けているのに、浸透しない状態を「伝言ゲーム的な組織の劣化」と位置づけたい。ダイレクトに全員に言葉が届く内は、本人達が企業の理念を己のものにしていなくても、忘れた頃に言葉が降ってくるので、それなりに意識する。しかし、規模が拡大すれば経営者は、一対一による密なコミュニケーションによって志を伝え続けることは物理的に不可能となる。この場合は、他の役員や上級のメンバーを介して、志を伝え続けなければならない。当然、経営者が直接伝えるより品質が落ちるケースが多い。結果、志は浸透せず、組織は官僚的サラリーマン的に雰囲気になる。
規模や社歴による安定感と、薄まるモチベーションのバランス感の中で、倒産せず生き抜いていれば良しとする考えもあろう。しかし、私自身は規模の拡大と同時に志が薄まることを一切許す気がない。HWSの成り立ちを考えるなら、志が希薄化することは死ぬことと同じだ。サッサと解散すべき状態だ。
よって、規模の拡大と同時に更に志は濃くなり、組織全体に息づく状態をHWSでは実現しなければならない。私から志を一方的に下流に伝えるような構造では、志は薄まって当然だ。各所で自発的に志を煮詰め練り上げていけるかどうかがカギだ。
この様な仕組みが可能なのかを考える。
先日、チンギス・ハーンの一族についての書籍を読んだ。グローバルIT企業として世界に打って出るHWSとしては、人類史上最も広大な領土を手中に収めたモンゴルはベンチマークの対象となる。
反抗する民族、国家に対しては苛烈なまでに攻め抜き制圧したモンゴルだが、言語や宗教に対しては寛容だったようだ。あらゆる宗教の存在を認め、他国から文字や言語も取り入れている。この寛容さがモンゴルの拡大の一因でもあるのだろう。
そのモンゴルの中にも巧みに進入し、勢力を伸ばし続けたのがキリスト教だ。領土を支配したのはモンゴルだが、領土という概念を捨てれば人類史上もっとも地球上を支配し影響を与えたのはキリスト教かもしれない。
以前、ヨーロッパを旅した時に、各都市に設置されたドゥモの見事さに感動したものだ。ドゥモとはバチカンをキリスト教の本社とすれば、各都市に配置された支社である。各都市の領主は、その都市の力と信仰心を示すために、壮大なドゥモを建造した。当時、ヨーロッパの都市国家群はキリスト教総本山の意向を絶えず意識し政治をせざるを得なかった。ある意味、土地ではなくヨーロッパ全土の国民の精神を支配していたのはキリスト教であった。
そのキリスト教は発足してから二千年経つ今でも勢力を持ち、アメリカにもアジアにも浸透している。人類の奇跡の一つだ。
モンゴルの各都市にも教会があり、宣教師が送り込まれていたようだ。日本の戦国時代にも、命をかけて布教に来た宣教師達の存在が認められる。彼らはもしかしたら生涯生地にもどれないかもしれない。ヨーロッパから遠く離れた、モンゴルや日本で布教活動を長期に渡って継続しなければならないのだ。
しかし、彼らの行動を見ると、日本来てローマから遠く離れても、思想や信仰が薄まっていくようには思えない。自分一人になって、キリスト教未開の地での活動という前人未踏な課題を前にしても、より高いモチベーションを持ち、教義に対する理解を深め、布教を実現している。離れれば離れるほど、拡大すれば拡大するほど志が際だっていくのだ。
善し悪しは別として、可否を考えるのであれば、起業の志や理念も巨大化と同時に、より濃密に出来るのだと思う。大きくなったら、末端は劣化するし、生産性は落ちるのが当然と考える経営者は多いであろう。しかし、必ずしもそうではない事は、キリスト教のあり方を見れば分かる。だから、我々は伝言ゲームの中で、志が曲がり薄まり組織が劣化することを認めず、拡大と同時により志が鋭く磨かれる姿を追うのだ。これがHWSにおける挑戦の一つだ。
これからHWSのリーダー達は一団を率い、各所にて戦わなければならない。いちいちモチベーションを誰からか上げてもらったり、理念を教育してもらっている場合ではない。各リーダーは自分で志を磨き、自らのミッションを定め前線で戦わなければならないのだ。その様な組織でなくて、どうやって世界と戦う一団を作れると言うのだ。
しかしながら、この挑戦はほぼ全ての企業で実現されていない。その為の挑戦すらされず、不可能な事として諦められている。簡単でないことは、はなから分かり切っている。我々しか実現不可能な組織のあり方なので、我々が挑戦しなければならないのだ。
多くの社会人の方に言いたい。
あなた方がストレスをためるのは、志が無いからだ。志がなく過ごす時間は人として生きている時間とは言えない。草木や動物と同じように生存しているだけだ。ただ、草木と違い人間には思考力があり、意志がある。生存しているだけで、意志を使わない事は人間としての自己否定に等しい。当然、ストレスはたまる。
自分の仕事は志を全うするためにある。自分が使っている時間は志を全うするためにある。これが得心出来、意志を行動に込められた時に、皆さんはあらゆるストレスから解放される。
どんな激務でも、プライベートが無かろうとも、志があれば心が折れることはない。維新の志士達も、激務のストレスで倒れたりはしない。達成すべき志があり、その為に生きている実感があれば、使われる時間はストレスにはならない。
職種や業種を決める前に、己の志を練るべきだ。その志に殉じて、未来を決めるべきだ。その志を果たす為の企業を選ぶべきだ。そして、その組織の中で自分が貢献できることに没頭するのだ。自分のミッションを自ら決めるのだ。
志を練ることから逃げれば逃げるほど、人は苦しくなる。何故なら志がなければ、日々無為の時間を過ごすことになるからだ。賽の河原の石積みのごとき行為を繰り返して、健全な精神を保てるわけがない。
志を持て。志に挑め。日々の仕事を志で満たせ。自分の生きる価値を自ら生み出せ。
決して冷めるな。冷める君達が得る物など無い。社会や企業を斜めに見て、傍観者を気取ったところで、君達の価値は微塵も上がらない。上司を否定しても、社会を否定しても、そんな君達を凄いとも偉いとも誰も思わないよ。自分のちっぽけな自尊心を慰めるより、心から燃えた方が何十倍も得だ。幸せになれるはずだ。
主体者として、リーダーとして自ら周りに働きかけろ。志の体現者として、多くの人間に影響を与え、関わって生涯を過ごせ。その道を放棄した時点で、残りの時間は余生になる。人生の上り坂は何かを成し遂げようとしている時間だ。成し遂げることが無ければ、人生は惰性で生きる下り坂だ。既に余生だ。それは物理的な年齢の問題ではない。生きるスタンスの問題だ。
日本の劣化は、各々の意志でしか止められない。誰かの一時的な影響では止められない。多くの方が志を持ち未来へ進むなら、若者達が道に迷ったような昨今の犯罪も起こらない。未来に成すべき事があるなら、自分の人生を軽く使えないからだ。
私自身は生涯上り坂を自分の意志と力で進み続ける。死ぬ寸前まで志に燃え続けられれば本望だ。富も名声もいらない。生涯を志の実現に捧げ、自らの価値を感じ、生を全う出来れば幸いである。
私自身、毎週日曜日は会社に来て、若いビジネスパーソンの指導にあたっている。自社の人間だけではなく、他社の社員も多く参加している。延べで言えば二千人程度になるだろうか。基本的にボランティアだ。社会貢献の一貫としての位置づけだ。しかしながら、この身体を張った取り組みがHWSの社内文化を醸造する上で一役買っている事実は否めない。
最近は個人単位の参加だけではなく、企業ごと参加して頂いたり、経営層が参加して頂いたりもしている。良い刺激になっていると、ご評価頂いている。
継続的な勉強会も開催されているが、年に三四回ほど私が主催する全四回の勉強会がある。
第一回 ガイダンス 9月7日(日)11時~
第二回 リーダーシップと組織論 9月13日(土)14時~
第三回 企業理念と戦略立案 9月21日(日)11時~
第四回 対人スキル(ネゴシエーション、マネージメント、営業etc) 9月28日(日) 11時~
恐らく今年最後の勉強会がこの日程で開催される。参加費無料。場所はHWSのオフィス。受け入れられる人数に限りがあるので、参加希望者は感想メールから連絡をして欲しい。HWSの社員も数名参加する。他社からの参加要請も数件来ている。早めに連絡を頂けると助かる。
私もボランティアでやる分、参加者は誰でもと良いと言う訳にはいかない。商売ではなく、日本の未来を背負うビジネスパーソンを育てたいと言う前提なので、真摯な姿勢を持たれているかは問わせて頂く。参加希望者にはHWSの取締役から一度面談がある。そこで、落ちたら参加は出来ない。
基本的には全四回参加出来る事が必須だ。また、遅刻なども一切許されない。
使いやすい部下が欲しいのではなく、自分と同じ視点で会社を考える仲間が欲しい企業様には、一考の余地がある。また、将来起業を目指されているエンジニアや、起業はしたが組織の方向性を定め切れていない経営者様も参加されればインスパイアされるかもしれない。
私自身が数社の企業を立ち上げ、その中で体験した失敗や課題をクローズアップして研修の中に落とし込んだ内容だ。多くの社会人が囚われやすいサラリーマン的な価値観を払拭し、企業を背負う為に必要な価値観を示したい。ビジネスパーソンへの道を示したい。こう言うと厳しい雰囲気かと思われるかもしれないが、真剣さが前提として必要なだけで、始まってしまえば楽しげな雰囲気ではある。
今のところ無料だが、物理的に私がHWSの経営を行う時間が圧迫される様なら、将来は有料になるかもしれない。ある意味、商売で研修を行っている他企業の内容より、私が直接実体験を元に語るのでインパクトは大きい。最終的な満足も得られる。もうしばらくは無料だが、人数に限界もあるし、HWSのメンバーが優先なので、今回の出席をお勧めする。
この研修もやり始めた頃は十数年も継続するとは思っていなかった。始めたのはバブル経済が崩壊した直後だった。過去の大企業全盛、サラリーマン全盛の時代から価値観が崩れ、ベンチャーの必要性やビジネスを構築する人間の必要性などが問われる時代へと潮流がシフトした。変化した時代へと、若者達を送り出す為に、この勉強会を始めたのだ。企業に守られた軟弱な社会人を自力で生き抜ける存在へと作り替えることを目指した。未だに大きな流れとして、それが達成されていないので、地道に継続している。
十年以上に渡り、無償で国の未来、若者達の未来を創ろうとした時間が、今の私の自信の根底にはある。私の言葉の強さも、この自信故であろう。だから、この研修も無償だろうが、一切手は抜かない。
この研修を卒業された仲間とは、基本的な価値観で繋がっている。ビジネス上の連携を取る上でも違和感がない。信頼が出来る。HWSの価値観も理解して頂けるので、他社様も連携しやすいはずだ。
今回は多少宣伝になってしまったが、HWSの商売とは関係無いのでご容赦願いたい。
多くの方々との出会いを期待している。
昨日、09年入社予定の内定者と面談した。まあ、正式な面談という訳ではなく、内定式まで力が有り余っているので、ミーティングとって下さいと言うような流れの面談だ。流石にHWSを選んだ奴らは暑苦しい。
話の中に、彼らの世代はちょうどゆとり教育が導入される前の世代だという内容があった。大学の後輩を見ていても、ゆとり教育世代の奴はちょっと違いますよとの談。メンタリティが違うので、仕事の世界に入っても負ける気はしませんと言っていた。心意気や良し。
ゆとり教育の是非についてはよく議論になる。日本の教育水準の低下は、ゆとり教育の責任であると言う意見が強さを増している。ゆとり教育は是正する方向で世論も傾いている。
個人的な意見とすれば、ゆとり教育云々は現状の教育力の低下等に直接的な関連は無いように思う。ゆとり教育を肯定しているのではなく、そこまで学校の仕組みが人格形成に影響するようには思えないのだ。事実、ゆとり教育で出来た時間を使って更に塾などに通う量は増えているはずだ。勉強の質、量ともに減ってきているとは思えない。ゆとり教育と教育水準の関連性は低い。
私が小学生の頃は、当然ゆとり教育などなかった。田舎に育ったので、受験戦争の圧力などもなかった。中学までは公立に行くのが当たり前。私自身も、生涯塾に通った事がなく、受験勉強もしたことがほとんど無い。そもそも、近所に塾がない。高校、大学受験の時は、冬休みにパラパラとドリルをやっただけだ。あまりにもノンビリしている。ある意味、ゆとり教育と言えなくもない。
それでも、現在仕事はそれなりに出来るようにはなっている。尤も社会に出てからの勉強の量や努力量は、尋常ではないと自負している。その気になった時から頑張れば人生など、何度でも取り返しかが効く。
小中学生の頃は、家にテレビが無かった。父は高校で教鞭をとっていたので、それなりに収入もあり貧乏だったわけではない。父の教育方針でテレビを取り上げられただけだ。結果、幼少の頃は、取り憑かれた様に本ばかり読んでいた。読んだ本の作者も題名も覚えていない。そんな事は私にとってどうでも良かった。ただ時間を潰すために、活字の中に逃げ込むしかなかったのだ。
山深い私の生地では、近所にお店などない。街灯も少ない。最寄りの駅まで歩くと二時間近くかかる。山も二つほど越えなければならない。隣接した家などもなく、畑や田んぼを挟んでまばらに民家がある。子供も少なく、ヤギとカモくらいしか遊び相手もいない。ひたすら本を読むしか、することがない。勉強は嫌いだったので、宿題などもほとんどやらない。イヤな子供である。
この時期の読書量が私の現在の人格の基礎になっている。学校では集団生活の中で社会性は身につけたが、勉強の内容よりも人間関係や団体行動から学ぶ事の方が多かった。
学校の授業の時間が数時間多かろうが少なかろうが、それで根本的に国民の性能や性質が変わるとは思えない。そこに責任を押しつけるゆとり教育批判もいかがなものかと思う。私の結論はゆとり教育をしようがしまいが、根本的な問題は解決しないということだ。
それよりも強い影響をもたらす事は山ほどあるはずだ。
例えば、親の姿。仕事に対する価値観、誇り、責任感など。愚痴や不満を言わず、前向きな姿を常に子供に見せたり、約束を守ったりする姿を見せられたかどうかの方が、子供に対する影響は大きいはずだ。学校よりも家庭の方が影響は大きい。
後は、世間の風潮やマスメディアの影響も大きい。学校よりも、そちらの方に問題がある。生徒などある意味放し飼いで良い。基礎的な勉強を行い、基本的な道徳を子供達に強要してもらえば十分だ。それで社会のルールを叩き込んでくれるだけでよいのだ。それ以外に神経を使う必要はない。後の事は、家庭が受け持つべきだ。あれもこれもと学校に求めるのは物理的に不可能だ。ただし、現在の学校において、基本的な道徳を強要するというキモの部分が失われつつあるのは問題ではある。この一点に関しては、学校側にもう少し強権を持たせるべきだ。
現在の若者達の幼稚さや、教育水準の低下は、ゆとり教育がどうだと言うよりも、ジワジワと劣化してきた、国民性に歯止めがかけられなかったと言う印象だ。努力することの尊さや、道徳の必要性などを熱く語れる大人が年々減ってきているのは事実だろう。その中で子供達が甘やかされ、正義を知らず、安直に自己の利を追い求めるとしたらA級戦犯は教育委員会でも文部省でもなく、我々大人達全員の生きている姿勢だ。
話を実社会に移す。
実社会にゆとり教育は存在しない。しのぎを削り、勝利を掴んだ者だけが達成感や豊かな生活を掴める。善し悪しは別として、資本主義はそのルールの上にある。ただし、気持ちが折れなければ何度でも挑戦して良いのも現代社会のルールだ。競争を避ける必要はない。負けたら何度でも再戦を申し込めば良いのだ。
日本が1990年代初頭まで、世界を席巻し経済力を伸ばし続けた背景には、他国からエコノミックアニマルと揶揄されるほどの努力があったからだ。その努力に国家を上げて取り組めた事が日本の国力の根底にはある。ゆとりを持って、国際的競争力を勝ち得るなど不可能だ。全ての人類は豊かになることを望み、その為に努力を惜しまない。過去の遺産にすがって豊かを享受している現在の日本人は、この歴史を刮目すべきだ。それが無理なら沈むしかない。
今の若者達に必要なのは、生きる希望だ。自分の人生を何につぎ込み生涯を過ごすかという哲学だ。その思想性を大人達が背中で示し、若人を導かなければ日本の将来はない。就職する会社を決めるより、従事する職種を決めるより、人生をかけて何を成すか決めて欲しい。
人が生まれ育つ環境や、時代時代の社会システムは様々だ。いちいちその影響を受けて人間が腐ったり、優秀になったりするようでは、あまりにも軟弱だ。どの時代だろうが、どんな社会的な背景があろうが、芯のある生き方をすれば良い。
自分の芯とは、自分の人生を何をするために使うかと言うことを、自分の意志で決める事だ。その中身に尊卑はない。自分の意志で主体的に決めれば、それで良い。
その芯が決まれば、ゆとりなど持たなくても人間は生きていける。その芯を全うするためにひたすら努力出来る。ゆとりを持つ持たないと言う議論は本質的な意味がない。自分の芯を追った後に、ゆとりある生活だったのか無い生活だったのかという結果が訪れるだけだ。どちらでも良い。
子供達の為に我々が出来ることは、生きることの価値や未来への希望を高い思想性の下に体現していく事だろう。
意志の籠もった企業、意志の籠もった組織、意志籠もった事業が日本各地で次々に立ち上がる未来を心から願う。

昨日、ベトナムから帰国した。昨年HWSが上流部分を担当した店舗用のシステムも順調に仕上がっていた。年内に開発を投げる先のファシリティーの視察もしたが、思ったより良い開発環境だった。適切にオペレーションが出来れば、ベトナムとの連携は現実的である。
ベトナムでは、多くの現地法人を回った。また、ベトナムでビジネスを展開する方々とも面談した。
現状では、大きな成功をベトナムにおいて掴んだ日系企業は少ない。コストセンターとして、成果を収めている企業はそれなりにある。
ベトナムがビジネスフィールドとして開放されて以来、アジア通貨危機を経て現在に至るまで、多くの企業、ビジネスマンの浮沈がある。ほとんどは沈の方だ。その瓦礫の上に現在のベトナムはある。
ベトナムに対する評価も聞く人によって違う。ある人は、ベトナム人は勤勉だという。ある人は、ベトナム人は肥沃な土地に守られ労働意欲が無いと言う。ある人は、ベトナム人は組織に対する帰属意識が高いと言う。ある人は、ベトナム人はお金ですぐに転職すると言う。
物事が多面的かつ重層的であることは、私自身よく理解している。前提や基準を変えれば、事実は変わる。どちらの言うことも、比較する対象や、そうなる前提を変えれば起こりうる事実なのだろう。
ホーチミンにて、行動をずっと共にしていた社長がいる。年齢はまだ若いが、ベトナムに住み着いて、14年になるという。当然、ベトナム語も堪能だし、現地の人間との交わりも深い。日本人同士として話していても楽しいので、基礎的なコミュニケーション能力も極めて高い。彼の営業力によって、会社が成立していることも想像に難くない。ある意味、日系ベトナム法人の経営者の中で突出した要素を多くもった存在だ。タフで柔軟だ。
14年の歳月はベトナムを全く違う姿へ変貌させた。内部からベトナム資本主義の創立を見られた事は彼にとってかけがえのない財産であろう。アジア通貨危機の時に、日系企業の、潮が引くように撤退する姿も見ている。日本の商社マンが、片道切符だけを持って、ベトナムに来て戦って領土を拡大するタフさも体感している。
彼のベトナムに対するスタンスを少し書きたい。
細かい数字や、理屈は別の機会に回す。
彼ほどベトナム社会の良さも悪さも理解している人間はいないだろう。前項にて書いた、ベトナム人の離職率の問題や、人的成熟度の低さなども一番分かっている。人間性の良さなども、肌感で理解している。
数年で帰国が決まっている駐在員や、雇われ支社長なら、最後までベトナムはアウェイで良いだろう。客観的にベトナムを評価し、本社に叱られない程度の報告をすれば済む。旅行者の延長なので、お客様として赴任した年月を過ごせばよい。
しかし、彼の場合は、そのスタンスが許されなかった。大したバックボーンも無く、二十万円ぽっちの現金を握りしめてベトナムに渡った彼はベトナムと交わるしか、自分の価値を認め生きる道が無かったのだ。
数年でベトナムを去る人間は自分の評価を相対的に高めるため、ベトナム人の気質を必要以上に悪く言う。これは中国でも同じだ。状況を難しく見せれば見せるほど、失敗した時の布石にもなるし、上手く行った時の手柄も大きくなる。だから、極力ベトナムの酷さを協調する。
しかし、その言霊に縛られ、成るものも成らない事が多い。背水にて、初めて人間の真価は発揮される。逃げ道を数多く用意してリスクヘッジをはかるのが、外見には賢く見えるのだろうが、その周到さによって逆に自分の能力を常に割り引いている人間も多い。
彼のスタンスの正しさは、ベトナムを悪いとも良いとも言わないことだ。ベトナム人の性質はレクチャーしてくれる。ベトナムという国が抱える問題も、包み隠さず話す。HWS自体が先々クライアントになる可能性もあるのに、隠し立てて良く見せようともしない。
彼は全てを知った上で、ベトナムを活かし、ベトナムに産業を興そうとしている。
物事には良い面も悪い面もある。悪い面にフォーカスし、何かを否定する事は簡単だ。ほとんどの人間は、この簡単な作業に常に逃げ込む。責任を他者に投げ、批判をすることによって、自我を慰める。ひ弱な自分への防衛の為に、ハリネズミの様に針で全身を覆い、他者を批判するのだ。
ベトナムにも良い面も悪い面もある。良い面を活かし、世界と戦える競争力を実現して欲しい。ベトナムに世界的な産業を創り上げるのは挑戦だ。しかし、出遅れた者が第一線に飛び出すためには挑戦するしかないではないか。
ベトナムの良い面にフォーカスし、その性質を活かすようにオペレーションし、成果を出し続けることによってのみ、ベトナムの隆盛は実現される。ベトナムの隆盛はすなわち日本の繁栄にも繋がる。日本の強固なパートナーとしてベトナムが発展した場合は、繁栄は共に享受出来るはずだ。
中国やベトナムに工場を持つ友人が言っていた。中国人とのビジネスは問題も多いが、こちらが手を抜かず、ちゃんとチェックする部分をチェックすれば一定の製品は納品される。一度や二度のトラブルで撤退したり、日本側が手を抜いた状態で、中国にパフォーマンスばかり求めるから駄目なのだ。諦めずオペレーションを煮詰め、必要な手順を確立すれば安いコストや品質は実現可能なのだ。
中国を提携先として使う為には、中国の性質を知らなければならない。良い悪いと言う論議は不要だ。全く箸にも棒にかからなければ、そもそも駄目だ。可能性があり、有効な面があるから提携先として挙がるのだ。その可能性を形にするためにどうすれば良いかを練りに練るのだ。中国人の性質は固定要素だ。こちらの取り組みは如何様にでも変化できる。変えるべきは自分達の方だ。
話を戻す。
繰り返すが、このベトナムの友人の価値観の中には、ベトナムが良いも悪いもない。ベトナムを理解し、そこに産業を作る未来しか指向していない。しぶとく、そして前を向いている人間でなくては、更地に何かを組み立てる事は出来ない。ベトナムに新しい産業が根付くとしたら、彼の力が必要なのではないかと思う。
最後に
この項は、ベトナムの話ではない。多くの読者の生き方についての提言だ。会社のせい、上司のせい、取引先のせい、市況のせい、社会のせいにして、自分のふがいなさから逃げてはいないだろうか?
物事の悪い側面にフォーカスし、言い訳という心の逃げ道を探す為に、自分のエネルギーを注いではいないか?
ビジネスの世界では、悪い状況、良い状況という単語自体がナンセンスだ。ある状況を利して最大の成果を狙う。これを徹底するのみだ。それが無理なら、全力を注がず逃げ道を持ちながら生きても許される、ペーぺーのサラリーマンで一生を過ごすべきだ。
今君達が居る会社に、良いも悪いも無い。君達は、自企業の強い面を活かし、事業を伸ばす挑戦をすればよい。組織が硬直しているなら、内部から揉みほぐして柔らかくすれば良い。制度に不満があるなら、自分が先鞭をつけ、新しい基準を作れば良い。そのバイタリティーや決意が無ければ、どこの会社に行っても、君達は不平を言いながら腐っていくしか道はない。腐る君達を活かせる会社など無いよ。
自分の可能性を試すなら、船を焼いた方が良い。逃げ道をふさいだ方が良い。若い君達がそれで失う物など無い。自分が思っているよりも、君達は自由だ。自由を間違って使い、楽にながれては駄目だ。自由は意志を込め、挑戦に使うべきだ。多少失敗しても、今なら「ごめんなちゃい」で済む。
片道切符と僅かな資金でビジネスの世界に飛びこんで欲しい。不退転で何かを仕上げる執着とタフさで新たな道を創り上げて欲しい。過去に日本のビジネスマンが世界を席巻した強さを再び取り戻すには、若人達のチャレンジャースピリットに頼るしかないのだ。